2003年(平成15年)7月1日号

No.220

銀座一丁目新聞

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追悼録(135)

  第二次大戦の硫黄島戦で日本軍が使用したロケット砲(噴進砲)が近く靖国神社の遊就館に陳列される。このほど硫黄島から運ばれてきた。戦後58年もたっており腐食がはげしいので、補修の上保存される。記録によれば、ロケット砲は一個中隊40門(弾薬434発)配備された。命中精度は必ずしも良くなかったが、その効果は抜群であった。射程は2000mから3000mで米軍を驚かせた。口径20センチの噴進砲は筒から発射されたが、口径40センチの噴進砲は組立式木製の発射台から打ち出された。恐ろしい音を立てて飛翔していった噴進砲弾がドカンと爆発すると米兵は胴体が真二つ分かれて吹き飛んだという。
 上陸した米軍(昭和20年2月29日)は「わが軍は一日一ヤードを前進するのがやっとである。日本軍は新兵器を使い、わが軍の前進を阻み、甚大の損害を与えている」と報告している。この戦争の島嶼作戦で攻める米軍が日本軍より損害が大きかったのは硫黄島戦だけである。日本軍の戦死者は約1万9900名、生還者1033名。米軍戦死者6821名、戦傷者2万1865名であった。
 同期生の杉原敏彰君の書いたものによれば、ロケットの着想は昭和6年ごろに既にあって、工兵出身の松井中将の創意により工兵が渡河戦を行う場合、舟艇の軸先から自走砲を発射して対岸の敵及び防御物を粉砕して上陸するという発想であった。この研究が砲兵学校で進められて弾道の安定性も改良されて、噴射砲となった。篠尾正明著「現代兵器入門」には陸軍のロケット研究は野村正彦少将(最後の第七陸軍技術研究所長)が中心となって推進されたものでその功績は極めて大きいとある。さらに「相当大型の経400mm重量500kg余までのロケット弾数種が完成し島嶼防御に活躍した」と記述してある。
 硫黄島戦に名将、栗林忠道中将(陸士26期)の名前を逸するわけにはいかない。これまでの陣地構築は水際撃滅思想に基づく海岸直接配備であった。それを縦深陣地に改め、徹底した持久戦により敵の出血を強要する作戦にした。このため米軍の沖縄上陸作戦は一ヶ月も遅延を余儀なくされた。栗林中将が大本営に送った最後の電報(昭和20年3月17日)「戦局遂に最後の関頭に直面せり。17日夜半を期し少官自ら陣頭に立ち皇国の必勝と安泰を祈念しつつ全員壮烈な総攻撃を敢行す。敵来攻以来想像に余る物量的優勢を以って空海陸よりする敵の攻撃に対し克く健闘を続けたるは小職の聊か自ら悦びとするところにして部下将兵は真に鬼神を泣かしむるものあり」その電報につけた三首の歌の一つを紹介する。「国のため重きつとめ果たし得で矢弾つき果て散るぞ悲しき」
 栗林中将は3月25日夜、海軍部隊司令官、市丸利之助少将(海兵41期)とともに約400名の将兵を伴って出撃、壮烈な戦死を遂げた。大将に昇進、時に54歳であった。

(柳 路夫)

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