安全地帯(48)
−忘れ物で命拾い−
−信濃太郎−
大連二中・陸士の後輩である桑原達三郎君が福岡支部校友誌の会報(NO37・2003.7)に忘れ物をして命が助かった話を書いている。人間の運命はわからない。電車に乗り遅れたために事故の遭わなかったとか、一便先であったため助かったという話はよく聞く。その人のもって生まれた運と言うほかないであろう。
話を要約すると、昭和20年春、陸軍予科士官学校(埼玉県朝霞)で授業中、空襲警報が鳴った。生徒達は予め決められた防空壕へと走った。桑原君は大連の姉たちから贈られた腕時計を机の上に置き忘れたのに気がつき、急いで教室に戻り再び防空壕へ向って走った。ところが防空壕は満員では入れなかった。仕方なく近くの松の根元に伏せた。B―29の空襲である。「爆弾は機体を離れたときは線に見えるものだが、私はじっと目を凝らして落下してくる爆弾を見つめていた。そのうちの一発が丸く見え始めた。『あと数秒で俺は終わりだ』と覚悟した。暗黒の視野の中を母と3人の姉の顔が年の順にさっと走った」。爆弾は防空壕を直撃した。壕は跡形なく抉り取られ直径10b深さ4bのすり鉢状の穴があいていた。確か10名ほどの友人が爆死した。若し腕時計を教室に忘れていなければ、今はあの世にいる。これが『戦争』というものかとつくづく考え、数分前まで元気で机を並べていた死者の顔を思い出して涙をぬぐったという。
調べてみると、4月7日正午の出来事で、区隊長一人、文官教官一人、生徒11人が死んでいる。夢声戦争日記(6)によると、この日は朝から警報があり、南の空から大編隊、21機編隊、11機編隊など次々にやってくる。映画「大地」の蝗群が空を蓋うてやってくるに似ていた。方向がそれているので、皆見物したとある。
その頃私たち59期生は本科(神奈川県座間)で訓練に明け暮れしていた。同期生の日記には「4月7日 土曜日 晴 戦爆連合 百数十機の空襲あり。編隊も乱さず悠々と飛行するB-29を眺めては実に口惜しき限りなり。その一機、撃墜せらるるを見、痛快この上なし」とある。4月だけでも7回も空襲があった。そのつど防空壕に避難するのだが、夜間の場合、筆者は時には横着を決めてそのまま寝ていたこともあった。5月10日座間でも犠牲者が出た。空襲で区隊長一人、文官教官一人生徒二人が死んだ。
桑原君は結びでいう。『「人間は何と愚かでよく深いものか」と嘆く年齢になった。代議士の中でも戦争を体験した人は絶対少数になったし、教師には一人もいなくなった。せめて孫達には同じ道を歩かせたくないものである』戦争の体験は語り継がねばならないとつくづく思う。 |