2003年(平成15年)4月20日号

No.213

銀座一丁目新聞

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追悼録(128)

 名作「蟹工船」を書いた作家、小林多喜二が小学生の頃、母について書いている。「うちの母さんの手は、いつもひびがきれて、痛そうです。着物も年がら年中、同じ着物をきております。水産学校の校長先生の奥さんは、茶色の着物だの、紫色の着物だのあずき色の着物だの取りかえて着ています。そして町さ行く時、時々人力車に乗ってゆきます。ぼくは、ぼくの母さんにも、よい着物を着せて、小樽の町中、人力車に乗せてやりたいです。これがぼくの夢です」(三浦綾子著「母」角川文庫より)。
 多喜二は心根のやさい子供であったようである。私などは多喜二の足元にもおよばない。このような作文書いた記憶もない。最も、生まれたとき毛深ったので産婆さんが母親に「この子は情け深い子になるから大事に育てなさい」といわれたそうだ。母うめは昭和23年11月23日、長野で60歳でなくなった。私が毎日新聞で駆け出しの記者修行中の23歳のときである。親孝行といえば、23年の春、子宮ガンで岡崎の病院に入院した際、一週間、病院に寝泊りして看護、下ものの世話をしたぐらいである。
 職業軍人の妻となり、男ばかり7人の子供を育てた母の生涯は苦労の連続であったと思う。愛知県岡崎生まれの母は三人姉妹の三女で、「小町娘」といわれた美人であった。豊橋連隊に勤務していた父に見初められ、休みごとに豊橋から岡崎に来る父にほだされて結婚した。父の転勤とともに大阪、台湾、ハルピン、北京と転々とした。生活に余裕ができたのは、ハルピン時代からであろうか。よく映画を見に行っていた。長谷川一夫、高田浩吉の大フアンであった。そのうち映画館「平安座」の支配人と顔見知りとなり、映画館の一室を借り、泊り込みで映画を見る凝りようであった。弟の表現を借りるとその頃の母は「洋服も着物もちょっとしゃれたものを着こなしモダン的あった」そうだ。
 敗戦の年、軍の学校から復員した私に着物を農家へ持っていては食べ物と交換、何不自由なく食べさせてくれた。また茫然自失の息子を寺の住職に預けたり、知人へ就職の依頼をしたりしたことなどを思い出す。案外気丈な一面を持っていた。つくづくと母の愛にまさるものはないと思う。

(柳 路夫)

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