鈴木真砂女さんを悼む
隣組の縁もあり、俳人として敬愛していた鈴木真砂女さんを追悼する。真砂女さんの店「卯波」(昭和32年3月開業)は銀座一丁目の私の事務所があるビルから歩いて一分足らずのところにある。もう少し詳しく言うと、有楽町から来て銀座柳通りと並木通りの交差点を左折すると、小さなお稲荷さんがある。幸い稲荷といい、江戸時代からある。その角を曲がった路地裏に店がある。
彼女の句に「わが路地の帯のごとしや暮の春」とある。店の名は「ある時は船より高き卯波かな」よりとった。ビルの住人となって7年になるが、酒を飲めない私は「卯波」の前を何回となく素通りした。たしかに下戸は美人と会うチャンスを少なくする。当方は3年前からホームページで「銀座俳句道場」を開設、俳句とは大いに縁がある。
「散り残る花に銀座は灯ともしぬ」櫻を詠った句もある。この櫻は八重桜である。お稲荷さんの前をまっすぐに行くと高速道路にぶつかる。その両側に桜並木がある。間もなく満開となる。昭和60年代のはじめに近くの酒屋さんの先代が寄付したものだそうだ。私と同じく信州出身である。頑固だが地域のために尽くすという心意気が信州人にはある。
すぐ近くに柳もある。柳通りである。かって京橋と新橋を結ぶ全長約1キロ60bの中央通リは柳の並木道であった。西條八十が詠った「昔恋しい 銀座の柳」は今ここだけにしか残ってない。
鈴木真砂女著「銀座に生きる」(角川文庫)にこんなエピソードが紹介されている。真砂女さんは女学校時代、東京で寄宿舎生活をしていた。神田で髪結いをしていた伯母が芝居好きで、時折つれてゆかれた。学校の校長は有名な嘉悦孝子で、大の芝居好きであった。嘘をついて早退して芝居見物にいったら、校長にぱったり会ってしまった。翌日、叱られるかとびくびくしていると、「鈴木さん、きのうの芝居はよかったですね」といっただけであったという。このような校長はいまやいない。
昭和28年(46歳)「羅(うすもの)や人悲します恋をして」、「女三界に家なき雪のつもりけり」とその心境を詠んだ真砂女さんは32年後「来し方は霞の奥に隠したし」という。やや気が弱くなってきたのであろうか。それでも「まだ二十年出来る浮気や寒の涯」「ここに男在りて鰭酒の恋せむか」などの句が生まれる。3月14日この世をさった。享年96歳であった。「戒名は真砂女でよろし紫木蓮」。さしずめ私なら「戒名は路夫の命桜散る」となる。
(柳 路夫) |