2002年(平成14年)12月10日号

No.200

銀座一丁目新聞

ホーム
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
ある教師の独り言
GINZA点描
横浜便り
お耳を拝借
銀座俳句道場
告知板
バックナンバー

 

追悼録(115)

 毎日新聞の先輩、岡本博さんがなくなった(11月27日・享年89歳)。朝、いつもかかさない散歩の途中、若者が運転する車が接触、転倒し頭を強打して帰らぬ人となった。午前7時ごろという。こんな寒いときに散歩などしなくてもと思う。残念でならない。
 訃報の肩書きは「映画評論家」「元毎日新聞編集局次長」。毎日学芸部に岡本ありと、その名筆は有名で、特に映画批評は抜群であった。作家にも信頼されていた。30日の葬儀の際、弔辞を読んだ芥川賞作家、辻亮一さんは「1948年中国から復員して、書いた小説を岡本に頼んだら、志賀直哉(昭和46年10月死去・88歳)に見せてくれた。志賀さんは細かく書入れまでしてくれた。岡本の友情に今なお感謝している」と述べたほどである。ちなみに岡本さんは小説の神様といわれた志賀にかわいがられ、自転車まで頂戴した。
 今でこそ気軽に「全調査」と言う言葉が使われるが、始めてこの言葉を使ったのは、岡本さんが「サンデー毎日」の編集長(昭和38年8月から40年1月)の時であった。「無名の人間の不条理な運命をできるだけこぼさない方法として、戦後ジャーナリズム、特に週刊誌の作方であったように思われる」といっていた。
 筆者は毎日時代岡本さんとは一緒に仕事をしたことはない。なぜか私を評価してくれた。社を辞めて毎日企画センタ―の責任者のとき、社会部長(昭和51年)の私に事件きりぬき帖「212−0321」に「事件と忘れえぬ人々」を2年間も書かしてくれた。良い勉強になった。
 平成3年4月、その著書「思想の体温」が出版されてお祝いの会の時、久し振りに岡本さんに会った。そのとき、スポニチの社長であった。話をしているうちにふとひらいめいた。それが「客員編集委員制度」である。ジャーナリスト、評論家、大学教授などに時事問題を解説、評論をしていただき、スポニチの評価を高めようという狙いであった。岡本さんは7月1日付けで第一号になった。それから4年間、スポニチ紙上で健筆を振るわれた。「思想の体温」には「人と人は/おたがいがもつ思想の/あたたかみによって/つながっている」とある。岡本さんと私の体温はあたたかったからこそ結ばれたのであろう。

(柳 路夫)

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts。co。jp