1999年(平成11年)2月10日

No.65

銀座一丁目新聞

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“針の穴から世界をのぞく(11)”

 ユージン・リッジウッド

色ごとも 戦い終えて 冬景色

 [ニューヨーク発]戦いは終わりの時を迎えた。成り行きを見守っていたすべての人の心に大きな空しさを残して。

 クリントン大統領とモニカ・ルインスキーの秘め事をめぐって騒ぎに騒いだ交響曲「大統領の運命」は、全楽器が怒涛のごとく鳴り響いてまもなく終息する。激しい戦いに参加した戦士たちは誰もが敗者となり、誰もが空しい戦いだったと嘆くだろう。これが政治であり、これが民主主義社会であり、これが瞬時に映像の伝わるテレビ文化社会であるのだとうつろな納得を自らに強いて、また新たな「運命」を探して明日に向かう。

 アメリカ史上わずか2度目の大統領弾劾裁判へと発展した騒ぎの本質は、ことの最初から簡単明瞭だった。大統領が当時ホワイトハウスの実習生だった若い女性と大統領執務室で男女の戯れに興じた。もし賢明なファースト・レディーにもっと早く知られていたら、それこそ「Stupid Bill(ビルのおばかさん)! あなたは誰のおかげでアーカンソーの田舎知事から大統領になれたの?」と、熱いお灸をすえられて終わっていただろう。スチューピッド!ただそれだけのことだった。

 ところがこのスチューピッド・ビルは経済も政治も誰もが思ったよりはるかにうまくこなす。日本の小柄な総理に「困った時は助け合うのが友人ですよ」と大満悦に同情され、挙げ句の果てに世界注視の宴席でホストの足元に嘔吐して倒れてしまって、「ジョージにはお行儀よくするのよといつも言っているんだけど」と夫人が謝らなければならなかった前大統領に比べれば、景気は好調、所得は上がる、失業率は下がる、犯罪は減る、ホームレスの姿は消える、そしてついには未曾有の膨大な財政黒字で30年後の社会保障まで確保して、「アメリカ社会は磐石だ」(年頭教書)と宣言する大統領を見れば、本業をしっかりやってくれるなら、時には気晴らしの悪ふざけも大目に見ようというのが国民の本音だった。

 とこらがスチューピッド・ビルのような団塊の世代の行動パターンは伝統的な保守派には誠に理解し難い。貧しい一種の崩壊家庭で育ったワンパク坊主が一流大学で一流の成績を収め、ベトナム戦争という国家の難事の中でまんまと外国に留学して徴兵を逃れ、それだけでは足りずに国家に楯突く反戦運動をやり、事が収まれば故郷に帰って知事になる。そして職業経験としてはほとんど知事しかやっていない男が世界最強の大統領にまでなってしまう。こんな男に営々として築いたアメリカの価値観を覆されるのは座視できないことだ。しかし選挙をすればいつのまにか圧勝パターンを作るこの新人類に、共和党候補は歯が立たない。とあっては、選挙以外のありとあらゆる方法で大統領をたたき、あわよくば失脚を狙うほかはなかった。

 こうして知事時代の投資にまつわる一件で、議会多数派の力に頼んで疑惑解明の特別検察官任命にこぎつけた。二百人の連邦捜査官で四十億円に上る捜査を続けたが、大統領失脚に追い込む不正の証拠は見つからない。本来ならホワイトウオーター不正投資疑惑が証明されないと分かれば、特別検察官は任務を終了すべきだが、大統領失脚が究極の目的であるだけに、嫌がらせにつながることならばどんな些細なことでも捜査した。そこに突然引っかかってきたのが、ハリソン・フォードならぬクリントンに中年男のセックスアピールを見つけた実習生モニカ・ルインスキーによる情事の暴露だった。

 大統領、セックス・スキャンダルで失脚か。ケネス・スター特別検察官がルインスキー事件を追及するに及んで、マスコミは色めきたった。ニュース、討論番組を通してテレビは話題を盛り上げるのに精を出した。話題になればなるほど視聴率が上がり、視聴率が上がると放送価値が上がり、さらに国家の大事に見えてくるという相乗効果が生まれた。

 しかし検察官や共和党がテレビの力を借りて大統領失脚にどんなに執念を燃やそうと、事の最初からあったのは、スチューピッド・ビルがモニカと執務室で戯れたという道義問題だけで、大統領弾劾の理由となる国家に損害を与える偽証や正義の妨害がないのは誰の目にも明らかだった。「大統領とて人間だから、人には言いたくない事だってあるものだ」。ケネディ政権の特別補佐官で米歴史学会の重鎮、アーサー・シュレジンガー・ニューヨーク大学教授の一言がすべてを言い表した。その人間の弱さを大統領にも認めて、共和党が騒ぐほどの話しではないとクールだったのが共和党支持者も含めた一般国民だった。それは繰り返し行われた世論調査と秋の中間選挙に如実に表われた。

 1950年代共産主義の膨張を恐れたアメリカ議会が、国家反逆罪を盾にマッカーシズムと呼ばれる恐怖の“赤狩り”をして、リベラル派の学者、外交官を一掃しようとした暗黒時代があったが、セックス・スキャンダルを仕立て上げて政治家を追い落とす状況を憲法学者は“セクシャル・マッカーシズム”と呼んで嘆いた。

 幕が下りるとすべての人は冷静になる。「大統領執務室での行動が外に漏れるなんて、この国の安全装置は何と脆弱なんだろう」と、クリントンは久しぶりに葉巻に火をつけて嘆息するだろう。「それはあなたの身から出たさびっていうものよ」と、ヒラリーは癖の悪いビルの手をピシャリとたたくことだろう。滔滔とクリントンの罪を追及し続けた共和党議員は茶番劇の役者でしかなかったことに気付いて、大統領支持、弾劾反対共に70%強という最新の世論調査結果に来年の選挙を心配し始めるだろう。首脳会談後の共同記者会見で情事にまつわる質問ばかりにうんざりしていた外国の元首たちは、会見が正常化することにほっとするだろう。

 世界一豊かな文明国で「大統領の運命」が奏でられている間に、アジアに次いでロシアと南米が深刻な経済危機に陥り、アフリカとバルカンで殺戮が続き、途上国で昨年もまた食糧すら保障されない人口が約8千万人増えた。

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