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小さな個人美術館の旅(59) 山本丘人記念館・美術館夢呂土 星 瑠璃子(エッセイスト) 新宿から小田急ロマンスカーの沼津行きに乗って、一時間以上も経っただろうか。 読みふけっていた本からふと目を上げると、いつのまにか線路は単線になっていて、桜の並木がトンネルのように枝を広げる中を走っていた。花の季節はどんなに見事だろうと思う間もなく、透きとおった冬の陽に輝く枯野の向こうに、はっと息をのむ大きさで富士山が姿を現した。頂上からちょっと下がったところに小さな雲をふうわりとのせて大きく裾野をひく富士は、そろそろ大寒というこんな季節にさほどの雪化粧もせず、紫がかった山肌をえもいわれぬ色に染めている。車窓の右に左に正面に、電車がカーブを曲がるたびに少しずつ角度を変えて姿を現す富士を眺めながら、私は本を投げ出し、時の経つのを忘れた。 御殿場に着くと、電話で聞いてきたバスは二時間も待たなければ来ないという。駅前のタクシーを拾って、丹沢や箱根の山々を見遥かしながら見渡すかぎり遮るもののない富士の裾野を行くと、雑木林に囲まれて小さな美術館があった。一見「別荘かしら?」と思うような控え目な建物だけれど、何とも優雅なたたずまいだ。記念館と美術館の間の冬枯れの中庭には、これだけは青い竹林をバックに華奢なしだれ桜が一本。細い梢の先が銀色に光っている。
「アトリエだけでも何とか残したいと見つけた土地なのです」 日本画家、山本丘人。その姪で、望まれて死の一年前に養女となった山本由美子館長が言う。 洋画家で陶芸家でもある由美子さん夫妻は、自分たちの土地や家を売り払って義父のアトリエを大磯から移築し、手元に残された作品を公開するためには「美術館夢呂土」を作った。「夢呂土」とは、丘人の好きな言葉「夢」に、陶芸に使う粘土の貯蔵庫である「むろ」をもじって付けた名前だ。自分たちも敷地内に窯場を建てて移り住み、ちょうど十年が経った。 アトリエの雰囲気を模して設計された夢呂土の館内はさして広くはない。吹き抜けの天井や、むきだしの梁や、普通は美術館ならこんなところには立てないだろうと思われる木の柱が素朴であたたかな印象を与えるなかに、「公園の夏」「不忍池」「青い海」といった初期の作品と、「雪月花」など晩年の作品が下絵と並んで掛けられていた。
「義父は作品が完成すると下絵やスケッチはほとんど焼いていました。だから、残っている下絵は公表されることを念頭においたものが多いのです。それを本画と並べて見せたいというのが開館当初からの私の願いだったのです」 由美子さんが大きな黒い目でこちらをひたとみつめて言う。十年前には、いまのように下絵を見せたり、まして本画と並べるなどだれも考えなかったのである。 本画も、剥落が進んで手のほどこしようのなかった初期の代表作をこわれものでも扱うようにそっととりだし、たいへんな苦労で修復させたのは由美子さんだった。幼い頃から伯父が大好き、画家への道を父にすすめてくれたのも、日本画ではなく洋画を学んだのも伯父の助言があったから、という由美子さんならではの働きであった。 ところで日本では、スケッチやデッサンや「下絵」を「本画」より下のものに見る習慣があるようだが、そんなものだろうか。いかに小さなものであれ、それもまた優劣つけがたい「作品」なのではあるまいか。ましてや、ここに掛けられた「本画」と大きさも変わらぬ丘人のこの堂々たる「下絵」ときたら。晩年の、円熟の極みといった「雪月花」と並んで他では殆ど見ることのなかった若い時代の代表作があるのも嬉しかった。 「公園の夏」は帝展に初入選した二十八歳の画家の、「不忍池」はその翌々年の入選作だ。「青い海」とともにいずれも透明感あふれるリリカルでモダンな初期の作品は、だれもが知っている線の太く重厚な中期の作品と対照をなしていた。「下絵」とのまるで異なる印象にも驚かされた。洋画家の手になったといっても少しもおかしくない「下絵」が、「本画」になるとこれはまごうことなき「日本画」で、その一種魔術のような不思議に眩惑されるのである。どちらにも共通するのは丘人作品の底にいつも流れる清例な「詩」だが、その現れ方が全く違うのである。 1900年生まれ。77年、文化勲章受章。いくたびか劇的な画風の変遷を経ながら一筋に描き続けた孤高の画家は、85年、八十五歳の誕生日を前に逝去。美術館が開館したのは没後三年目の春のことだった。 「東京から桜の散り敷く中をここまでいらっしゃると、このあたりはちょうど満開なんですよ」 と由美子さんが夢見るような目で言う。 ゆったりと裾野をひいてそびえる美しい富士と満開の桜と。それもまた丘人の「夢」のような世界ではあるまいか。そう思った。
星瑠璃子(ほし・るりこ) このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。 www@hb-arts.co.jp |