2002年(平成14年)9月1日号

No.190

銀座一丁目新聞

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追悼録(105)

 キム・ワンソブ著『親日派のための弁明』(草思社刊)に、興味深い個所があった。1909年(10月26日)、安重根の伊藤博文暗殺事件を契機に合併に関する議論が具体化したというのである。乙巳条約(1905年の日韓保護条約)の締結以来、日本政府内では朝鮮を速やかに合併しなければならないとの議論が起きたが、伊藤は合併に反対し保護体制を維持すべきという立場であった。伊藤は韓日合併で惹き起こされる国際社会からの非難とそれに伴う日本の孤立を憂慮したというのだ。当時としては国際感覚に優れていた伊藤としては当然のことかもしれない。『安重根の伊藤殺害は韓日合併を少なくとも数十年ほど繰り上げる結果をもたらした』という。この指摘は面白い。
 たしかに、1906年(明治36年)3月、初代韓国統監になった伊藤は3年後の1909年(明治42年)2月、桂太郎内閣が韓国合併の方針を決めた機会に、その年の6月に辞任している。政府と合併について意見が合わなかったのかもしれない。後任に副統監の曽根荒助(翌年、辞任)が急遽、就任したところを見るとこの間の事情を裏付けているように思える。
 安重根の名前は小学校をハルピンですごしたのでよく知っている。通学していた花園小学校には朝鮮人の金という名の少年がいた。成績は常に上位で、真面目な性格であり、私たちは仲良く遊んだ。ハルピン駅には伊藤博文の胸像と遭難の地の碑文があった。もちろん今はない.戦前の話である。安重根は当時31歳、カトリック教徒であった。父親は大地主で、屋敷の中に私立学校を建てたほどの文化人であった。父の死後、安は排日派に入り、地下運動をはじめた。韓国侵略の巨頭としての伊藤を満州視察途地のハルピンで襲ったものである。安重根は1910年(明治43年)2月、旅順の関東都督府地方院で死刑の判決を受けた。そのとき安は少しも顔を変えなかったという。韓国では義士としてたたえられ、ソウルに安重根の記念碑がある。

(柳 路夫)

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