2002年(平成14年)9月1日号

No.190

銀座一丁目新聞

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競馬徒然草(21)

−追悼記− 

 故人を追悼することは少なくないが、馬を追悼することは滅多にない。1頭の名種牡馬が死んだ。サンデーサイレンス。8月19日、けい養先の社台スタリオンステーション(北海道早来町)で、衰弱性心不全のため死亡した。16歳。同馬は5月20日、右前脚の腱(けん)に細菌が入る「細菌性腱しょう炎」を発症、3度にわたる手術が施されたが、左前脚に蹄葉炎を併発し3カ月半の闘病生活の末、死に至った。重賞勝利数、年間勝利数など数多くの記録を打ち立てた大種牡馬も、病魔には勝てなかった。
 サンデーサイレンスは、86年3月25日、米国生まれ。父ヘイロー、母ウイッシングウェル。現役時代の成績は、米国で2〜4歳時に14戦9勝、2着5回(3着以下0)。GTは89年のケンタッキーダービー、プリークネスSの2冠達成を含めて6勝。3冠のかかったベルモントSでは、2冠達成時に2着だったイージーゴアに敗れた。宿敵との死闘は、今でも語り草になっているほど。そのサンデーサイレンスも、現役引退後の種牡馬としては、米生産界に不人気だった。シンジケート(1口25万ドル×40口)募集に、わずか3口しかオファーがなかったという。衆目一致の良血馬イージーゴアに対して、マイナー血統であるのが不人気の理由であったようだ。だが、その素質を見抜いた社台グループの吉田善哉氏(故人)が16億5000万円で購入、25億円(4250万円×60株)でシンジケートが組まれた。当時の国内最高額。いかに期待が高かったが分かる。
 94年に産駒のT期生たちがデビューしたが、フジキセキ(朝日杯3歳S、GT)など、重賞勝ちを4頭出した。翌年の95年からは、さらに産駒が活躍し始める。95年には重賞11勝、96年には同17勝、そして99年からは20勝を超えた。産駒は重賞レースに143勝している。主なGTレース勝ちを挙げてみると、次の通りである。ダンスパートナー(95年オークス)、タヤスツヨシ(95年ダ−ビー)、イシノサンデー(96年皐月賞)、バブルガムフェロー(96年秋天皇賞)、マーベラスサンデー(97年宝塚記念)、スペシャルウィーク(98年ダービー、99年春・秋天皇賞、ジャパンカップ)、アドマイヤベガ(99年ダービー)、チアズグレイス(00年桜花賞)、エアシャカール(00年皐月賞、菊花賞)、アグネスフライト(00年ダービー)、アグネスタキオン(01年皐月賞)、マンハッタンカフェ(01年菊花賞、有馬記念、02年春天皇賞)。産駒のデビュー以来、8月19日までの9年間にJRAで1357勝を挙げ、賞金額は366億円を超えている。2位は11年連続リーディングサイヤーにもなったノーザンテースト(77〜01年供用)で、277億円。サンデーサイレンスは、文字通り種牡馬の頂点に君臨し続けた。
 産駒の比類ない活躍は、日本の競馬を世界レベルに引き上げた。さらなる産駒の活躍が期待されていただけに、その死は惜しまれる。馬の16歳は、人間でいえば働き盛りの50歳。サンデーサイレンスは、一口に「サンデー」の名で愛された。「盆」より4日遅れの8月19日は、「サンデー忌」として長くファンの記憶に残るだろう。 

(宇曾裕三)

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