カクテルラウンジはホテルの最上階にあった。横浜の駅前だというのに、わい雑な喧噪はどこかへ蒸発して、かけら一つも見あたらない。
背の高い窓ガラスには、宵闇が広がっていた。その下で、車のイルミネーションがどこまでもつながっている。カイコは、高速道路の始まりと終わりを探していた。
テーブルの上に置かれたままの小さな箱。ふたを開いたのは、それを差し出した男だった。傍らのグラスが揺れる。ビロードの布地に包まれた箱は黒色に見えたが、もしかすると濃紺かもしれなかった。
グラスを浸したマリンブルーの液体がゆっくり色を変えていく。透き通った青色は、海の上で光るベイブリッジの色とよく似ていた。カイコの口元がほほ笑む。
そんなに涼しく笑われると気分が沈むと、その男は言った。自分はふられるのかもと、そんなことを言っていたが、口振りは堂々としていた。指輪と、この日の試合で決めたタッチダウンが、カイコへのプレゼントだと言った。
カイコは、箱の中を見た。サテンのクッションに、尖ったような石が座っていた。確か、白っぽかったと思う。
「ありがとう」カイコは気持ちをこめて言ったが、言葉は宙に浮いた。
カイコは、正面に見えるベイブリッジの輪郭を目でなぞってみる。
ピアノの伴奏が静かに流れてきたのは、その時だった。カイコは振り返った。店内では、バンドが生演奏を聴かせている。カイコの視線が空をさまよう。
知り合い?と、男はカイコにたずねたが、女性ボーカルの声にかき消された。
窓の外を見ると、埠頭の上に月があった。左の下の方が少し欠けている。カイコの頬に笑みが浮かぶ。
楽しそうにしてどうかしたのかと、男はけげんそうに聞いた。
「なんだか不思議な感じ、この感じ」カイコの目尻が笑った。
今の歌詞のことかと、男は気づいた。
「君がいる、嬉しい。君がいること、知ってる。この世に生まれてよかった」
カイコが歌詞をなぞると、そんなことは歌ってないと男は言った。
カイコは語気を強めた。
「歌はストーリーなの。パーツパーツで解釈しないでください」
どんなストーリーなのかと、男は聞いた。
「僕と君の2つのハートはつながってる」
カイコの言葉に、男は首をかしげた。そして、君は現実離れしていることが多いと、カイコを言い含めた。
窓の外から、月が、のぞいている。さっきより、だいだい色が強くなって、大きく丸みを帯びて迫ってくる。
「一人になりたい」カイコは告げた。
誰かの所へ行くのかと、男は責めた。
「一人になるだけです」カイコは言った。「でも、もしかすると・・・一人とは言えないかもしれない」
男には、カイコの言っていることが分からなかった。店の演奏が自分たちに横やりを入れた、カイコの心をインタセプトしたと、悔やんだ。
「いい歌よ」カイコは言った。
たかが一つの歌に現実の決断を託すのは夢想的すぎると、男はカイコを指した。
「これが私の現実です」カイコは言った。
分かるように説明してほしいと、男は言った。
カイコは考えた。そして、男に教えた。
「今、誰かが、ここに来たのよ」
男はあ然とした。誰もいないじゃないか、誰が何しに来たんだ、ふざけてるのかと、憤りを隠さなかった。
「インタセプトしたんでしょう」
真顔で答えるカイコに、男は何も言わなかった。テーブルの上の黒い箱のふたを音を立てて閉じた。
カイコが夜空を見上げると、十三夜の月と目が合った。
(つづく)
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