2002年(平成14年)6月20日号

No.183

銀座一丁目新聞

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追悼録(98)

 同期生の池田一秀君から仲間の福田春雄君が書いた、私小説「炎の綾」をいただいた。久し振りに開いた陸士本科14中隊1、2区隊合同区隊会(6月7日・グランドヒル市ヶ谷)の際、手渡された。私達は昭和18年4月、59期生として陸軍予科士官学校に入校、歩兵科の士官候補生として昭和19年10月から20年8月末に復員するまで、同じ釜の飯を食った戦友である。
 福田は「はじめ」に言う。「危急存亡の祖国を守り悠久の大義に生きようと、国家権力によってでなく、自らの意思の赴くところ、学業を捨てて国運に賭けた若者として死ぬために鍛えぬかれた日々を改めて思う。私もまっすぐ前を向いて駆け抜けようとした一人であった。そこで苦悩した十代の終焉の心を綴っておくのも、あながち無意味ではあるまい。再び、この歴史は繰り返されないし、また繰り返してはならないから」
 筆者の場合、父親が軍人(少尉候補生4期)であった。男ばかり7人兄弟であったが、誰も後を継がないので、当然のように陸士に進んだ。「七生報国」を誓う軍国少年ではあった。福田とはそうかわりはない。
 陸士本科のある相武台上で、福田(私小説の中では福山)も「死」を考えた。私も「ぶざまな死に方だけはしたくない」と思った。福田はもう少し深刻に思いつめた節がある。「我慾を捨てて、残る者の幸福を願い平和な明日の祖国への犠牲となることは、確かに有意義だし名誉にも思うが、なぜ今日まで玉砕が続くのか、玉砕が戦略上の必要とは思えないのに他に方途はないのか。勝つために死を賭したいと思っていた」とのべている。
 このころ、戦況は芳しくなかった。19年2月にクェゼリン、ルオット両島守備隊玉砕、6月、サイパン島守備隊玉砕、9月、グアム、テニアン両守備隊玉砕、ペリリュー、モロタイ両守備隊玉砕と日本軍の悲報が相次いだ。10月には海軍の神風特別攻撃隊敷島隊の関行男大尉等五勇士の戦果が報道された。日本は追い詰められてゆく。
 本科に在学中2回も脱走を企て退校になった正木清(私小説では関崎)について「奴のことは今にわかってくるさ。だが、彼が座間(陸士本科の所在地)の夾雑物であることはたしかだ」と理解を示してるのには驚いた。多くの区隊の同期生が彼を「しょうがない人間」と思っているのに、福田だけは違った。
 「考え方に弾力があるというか、国家とか国体より人間個体の方に興味があるんだと思う。・・・要するに奴の使い道の問題なのさ。奴の生き方だって筋道は通っているようだし、我々と違った若さや人間らしさもあると思うな・・・」
 私は正木から「日本は戦争に負けるよ」と聞いたことがある。日曜外出があったから正木はそれなりの情報を得ていたのかもしれない。私から見ても正木は変わった同期生であった。それにしても福田は、幅が広い。当時単細胞の私には正木のよさはわからなかったし、それを受け入れる雅量もなかった。
 福田は昭和52年12月、50歳の若さで死んだ。戦後一度も会わなかった。なお「炎の綾」は福田劫の名で昭和51年8月15日に自費出版されている。

(柳 路夫)

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