大連2中時代の友人、有ヶ谷芳君とは5年生になって急に親しくなった。五年生の編成替えで同じ組であった。卒業のアルバムの寄せ書きに「大丈夫、大志を抱け」と書いている。卒業3ヶ月前にお互いに顔写真を交換した。私は陸士受験の書類に貼ったた写真を贈った。
今改めて、彼の顔写真をみると、頑固そうで、利かん坊な相貌をしている。筆者も同じような顔をしているので、気が合ったのかもしれない。写真の裏面には次のような言葉が綴られている。「君は実に意思の人、心の人である。『天は自ら助くる者を助く』苦しみなくて楽なく、楽しみあれば苦あり。あくまで軍人として生き、軍人として死する君に次の言葉をおくる。『常に必勝の信念を持し死するとも尚やまざる精神を持って事に当たれ』」有ヶ谷君は私が父親の跡をついで軍人志望であるのを知っており、この年8月に陸士を受験、合格を自分の事のように気にしてくれた。
陸士の合格通知がきたのは写真のやり取りをした一ヶ月あとであった。(日付を調べると、昭和17年12月17日である)。大連地区の中学校からは10名の合格者があった。地元の新聞は寄宿舎生活をしている私の事に触れて「親元を離れている牧内君にはお祝いをしてくれる人もなく淋しそうであった」と取材もせず、見てきたように報じた。大東亜戦争も2年をこえ、ニューギニア島守備隊玉砕、ガダルカナル島撤退などの悲報が伝えられたころである。
旧制高校、大学と進んだ有ヶ谷君とは戦後、再会はかなわなかった。彼は在学中の昭和20年5月関東軍に応召、敗戦でそのままシベリアに抑留され、死んだからである。シベリアに抑留された日本人は60万人をくだらない。入ソ時の冬の死亡者は二日に三名の割であったという。有ヶ谷君も初期に死んだと聞いた。シベリアの抑留者の死亡者は7万人を数えるが、三分の二は、収容所一年目に集中している。もともとの病弱者、健康でない者、気の弱い者、年配者が栄養失調や感冒の犠牲になったという(同期生の高野晴彦著「凍寒(マローズ)に歌う」士官候補生のシベリヤ抑留記より)。
大志を抱きながら20歳そこそこで死んだ有ヶ谷君、死すべき運命にあった私が戦後、57年も生き長らえている。彼が写真の裏に書いてくれた言葉を拳拳服膺して残りの人生を生きたい。
(柳 路夫) |