2002年(平成14年)4月10日号

No.176

銀座一丁目新聞

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横浜便り(29)

分須 朗子

−短い物語 「ベクトル」3 〜銀波鉄道の朝〜−

 列車は、横浜駅のプラットホームに滑り込んだ。日曜の午前、ビル群の谷間に列をなすホームは、どこも人が渦巻いていた。
 ケンとメイは、車内の椅子に並んだままでいる。
 「降りないの?」メイがたずねると、ケンは、
 「もう少し乗っていよう」と答えた。
 動き出した車窓の向こうに、港湾の景色がちらりとのぞく。この日のケンとメイの目的地、みなとみらいの背の高い建物が青空にうずもれていった。
 列車が横浜市街の真ん中を走り抜け、湘南の山あいにさしかかるころ、メイがたずねた。
 「どこまで行くの?」
 ケンは言った。
 「どこまで行きたい?」
 もう一度、メイがたずねた。
 「どこかで引き返すの?」
 ケンは言った。
 「どこかで引き返したい?」
 メイは考えてみた。でも、よく分からなかった。
 今度は、ケンがたずねた。
 「この電車、どこ行きだったっけ?」
 「よく分からない」と、メイは答えた。
 その後、しばらくの間、メイはうつらうつらしていたと思う。気がつくと、西湘の海岸線が、車窓と平行に走っていた。どこまでもだだっ広い海岸は春の日差しを浴び、浜辺の白砂が瞬いている。
 「ケン、ケン、起きて」
 メイは、かたわらで眠っているケンの腕を揺らした。
 「ほら、海」
 メイの言葉に、ケンは光の方に顔を上げた。ケンは、初めて海を見た子供みたいに、あどけない笑顔をした。
 ふいに列車が方向を転換させたのはその時だった。先端の車両が90度に曲がり、線路を脱していく。列車は地平線に向かって宙を走り出していた。
 メイは車内を見渡した。もやがかかっていて、様子がよく見えない。さっきまでひしめき合っていた乗客はどこの駅で降りたのだろう、人の気配が感じられない。列車は、海の上にかかった虹の橋を渡っているようだった。
 「夢の中みたいだね」メイが言うと、
 「だって、夢の中でしょ」と、ケンが笑った。
 ケンとメイは窓の外をのぞき込んだ。虹の線路は一本だけだった。対向車が走る道は見あたらない。
 「この電車、どこへ行くんだろう」ケンが言った。
 メイは手に握っていた半券を見た。そこには、矢印が記されていた。始点から終点へ向かうことを示しているようだった。メイは、その行き先をどうにか見ようとするのだけれど、文字がかすんで分からない。ただ、矢印の下に赤い文字で大きく、片道切符とだけ書いてあった。
 「もう引き返せないんだね」と、メイが言った。
 「次の駅で降りる?」と、ケンはメイの気持ちを探った。
 「次の駅ってどこ?」メイが心もとない視線を向けると、ケンは、
 「分からない」とつぶやいて、困った顔をした。
 「ケンは降りたいの?」
 ケンは答えなかった。
 列車は、海の上を空に向けて上昇していく。とても静かだ。メイが窓から下を見ると、地上は海原に覆われていた。山も線路も町並みも、もう見えない。水面のあちこちで太陽の光が砕け散っては、銀色のさざ波が幾つも重なっていく。
 「きれい、とっても。波が銀に輝いてる、月の光じゃないのに銀色なのね」メイの言葉に、ケンは何も答えなかった。
 メイは、膝の上のバッグの中をがさごそやってみた。
 「あ、おにぎりがあったよ。ケン、食べる?」
 ケンは黙ったまま、おにぎりを手に取った。
 「あ、お茶もあるよ」「あ、ゆでたまごだ」「あ、からあげも」「あ、サラダも入ってた」「あら、イチゴまで」
 小さな袋の中から、入れた記憶のない食べ物が手品のように湧き出てくるのが、メイには不思議だった。きっと、これは夢の中なのだろうと思った。それでも、メイは、もっともっと懸命になって、袋の底まで手を伸ばした。
 「おせんべい」「ケーキ」「カップラーメンは食後かな」
 メイがケンに差し出すと、ケンはこらえていた笑いを爆発させた。
 「それ全部、持ってきたの?」ケンは大らかに笑った。
 「違うの。バッグから出てくるんだもの、しようがないじゃない」
 ケンの笑い声はとても鷹揚で、メイの心をゆったりとさせてくれる。こんな時、メイは、ケンのことが大好きだと思う。
 「でもね、別に、ケンのご機嫌をとるために、やってるわけじゃないのよ。笑わせたくてやってるわけじゃないのよ」メイは言い訳を繰り返していた。
 「ねえ、メイ」ケンが言った。
 「このまま一緒に行こうよ」と言った。
 「行けるとこまで」と言った。
 メイは事もなげに答えた。
 「うん、いいよ」自分でも不思議だった。
 (つづく)



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