羽田澄子著「映画と私」(晶文社刊)を読む。知りあってから10数年たつ。羽田さんが凄い人であるのにやっと気がつく。同学年であり、同じ満州育ちということで、親近感をもっている。名監督も努力し苦労したのもわかった。
記録映画「古代の美」(昭和33年)を演出したことに触れて、「構成にも画面にもモンタージュにもふくらみがないのです。骨ばかりで身がないといわれた時には一言もありませんでした」といっている。私も新聞記者の駆け出しのころ「君の文章は骨だけで肉もなければ血も通っていない」酷評された。それで発奮して、新聞をよく読み、「一週間一冊の読書」を心掛けた。
吉村公三郎さんの言葉が引用されている。「いい映画を一本や二本作ったからって少しもえらくない。そんなことは普通の頭脳の持ち主なら誰でもできることだ。えらいのはずっと映画をつくりつづけるということ、死ぬまでつくるということだ」
新聞の世界も同じこと。特種を何本かいても、常に問われるのは「今何をしているのか、これから何をしようとしているのか」である。問題意識を待たない記者は脱落してゆくほかない。
名作「薄墨の櫻」を作ったのが昭和52年である。この製作の発想は8年も前にさかのぼる。昭和44年の「狂言」(撮影は昭和47年秋から)を仕上げてから岐阜県根尾村のお祭り見物に出かけた際、ついでに見た樹齢千四百年の「淡墨櫻」がヒントである。
「この不思議な櫻の樹一本で15分ぐらいの音楽のような映画をつくれる」羽田さんはふと、そう思ったそうである。これをセンスという。日ごろから「人生」「いきてゆくこと」そんなことを感じさせる映画を作りたいという思いを持っていたからこそ、ひらめいたのであろう。
上映会後の羽田さんの話がいい。「私は何故、この櫻を撮ったか不思議です。私はこの櫻に選ばれたのです」。
同じ話を聞きながら「これは記事になる」と思う記者と思わないものがいる。時には「事件に選ばれた記者」がいて、よい仕事をする。どの世界でも同じようなことが起きる。
老人福祉問題を扱った映画が4本ある。「福祉システムづくりは、民主主義を基盤としなければ、本当のものはできない」という観点から物事を論じ、追求する。「ここに住んでいる」という意識になる空間が老人にはいい。だから老人が収容される施設はそう思い込める空間を持っていなければならないと言い切る。1982年の「痴呆性老人の世界」から1999年の「問題はこれからです」までの17年間の成果である。
それにしても、夫、工藤充さんの存在は大きい。やたらに誉めないのがよい。仕事仲間であり、喧嘩相手であり、同志のように見受けられる。
今、岩波ホールで上映中の記録映画「平塚らいてうの生涯」が盛況であるというのは何よりである。羽田さんにとってこの映画も通過点に過ぎないであろう。
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