花ある風景(90) 並木 徹 心に残る何人かの軍人がいる。その一人、草地貞吾さんを取り上げる。陸士39期、陸大恩賜である。その生き方に一本の筋が通っている。心から尊敬する。 軍司令官以上の高級将校の教科書とも言うべき「統帥綱領」(昭和3年3月20日制定)の第二 将帥の項に次のように記されている。 「軍隊指揮の消長は指揮官の威徳にかかる。いやしくも将に将たるものは高邁な品性、公明の資質及び無限の包容力を具え、堅確の意志、卓越の識見及び非凡の洞察力により衆望帰向に中枢、全軍仰慕の中心たらざるべからず」 作家の児島襄さんが米陸軍士官学校を訪ねたとき、二人の教官にこの「将軍の条件」を説明したところ、目をむき、口をあけ、やがてため息とともにつぶやいた。「それは『将軍の条件』ではなく『聖者の条件』だ。日本の将軍たちが、それほどの修養と能力を要求されているとは知らなかった」(児島襄著『指揮官』上より)。 草地さんはその将軍の条件を忠実に実行されようとしたように見受けられる。終戦時、関東軍の参謀で作戦班長であった。このため、シベリアに抑留され、禁固25年の刑に処せられた。この間、東京裁判にソ連側の証人として出廷することを要請されるが、断固として断る。重労働を強いられ、食べる食事も貧しい極限の状態に置かれている時、自分の信念を貫くのは容易なことではない。軍事法廷に検事側証人として出廷するのは、大陸鉄道司令官、草場辰巳中将(陸士20期)、関東軍参謀副長、松村智勝少将(陸士33期)関東軍参謀、瀬島龍三中佐(陸士44期)の3人であった。草場中将は東京に護送されて4日目に東京・丸の内三菱ビル3号館の一室で自決した(1946年9月20日未明)。 手帖に残され遺書には「私の罪は、私が大陸鉄道司令官であったのにもかかわらず、満州の避難民に輸送(列車)を確保できなかったことです。私は死ぬほかありません」またロシア連邦国立公文書にある担当官の報告書には『自分の仲間について証言することは非常に心苦しいと遺書に書いてあった』とある(共同通信社会部編「沈黙のファイル」より)。 1952年5月、参議院議員、高良とみさんが収容所を訪問から許可された往復はがきで草地さんは始めて、終戦時に新京で別れた妻子の消息を知る。夫人と10歳の次男2歳の三女が引き揚げの途中、発疹チフスで死亡。帰りをまちわびていた父も2年前に亡くなっていた。 草地さんは1956年12月26日、舞鶴に11年ぶりに帰国する。年齢的にいえば、40歳から51歳の間、異国で刑務所暮らしということになる。帰国後は教育に目を向けられ、日本大学文理学部に入学、歴史科を卒業、同時に高校、中学の教員免許を取り、青少年の教育に没頭される。8年間にわたり、高校と中学の校長も勤められた。その回想録には『私は心底から唯物共産主義と、いわゆる戦後民主主義なるものを好まない人間である。両者とも、極度に階級や個人の自由、解放、恣意(思うままに動く、わがまま)、権利を主張して人倫の常経(踏むべき道)、公共の秩序、社会の規範、国家の尊厳、道義に反するからである』と率直に述べておられる。老いを知らない人であった。97歳まで国のため人のために働かれた。 |