2002年(平成14年)4月10日号

No.176

銀座一丁目新聞

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追悼録(91)

 大正天皇について再び書く(平成13年2月10日号「追悼録」)。3月29日に大正天皇の実録の一部が公開された。漢詩に造詣が深いのはさきの追悼録でも触れた。1912年9月13日、明治天皇に殉死した乃木希典陸軍大将を追悼する漢詩を3首も詠まれている。乃木大将は明治40年1月から学習院院長であった。乃木さんの院長職は、明治天皇が山県有朋から乃木を参謀総長にしたいとの内奏を拒否して、選ばれたもの。その際「近々孫たち3人(大正天皇のお子さんたち)が学習院で学ぶことになる。その訓育をたくするには乃木が最適と考える」というお言葉があった。明治41年4月、昭和天皇、42年には秩父宮、44年には高松宮が入学され、乃木大将の薫陶を受けられた。
 真っ先に取り上げた教育方針は「実践躬行」であった。初等科の生徒たちに行った訓辞には次のようなものがある。1、口を結べ、口を開いているような人間は心にもしまりがない。2、けして贅沢するな。贅沢ほど人を馬鹿にするものはない。3、寒いときは暑いと思い、暑いときは寒いと思え。4、恥を知れ。道にはずれたことをして恥を知らない者は禽獣に劣る(渡辺淳一著「静寂の声」―乃木希典夫妻の生涯より)。大正天皇が乃木大将の追悼の漢詩を詠まれたとしても何の不思議もない。
 大正天皇にとって17歳年上であったが、有栖川宮威仁親王は頼りになる友人であった。天皇が17歳の時、有栖川宮は「東宮賓友」として迎えられた。一年後には東宮輔導となる。昭和天皇はお生まれになって70日目(明治34年)で海軍大将川村純義伯爵へ預けられて養育された(明治37年秋まで)。これは宮中の古くからのしきたりであった。はじめ川村大将はあまりの大任に戸惑いを見せられた。有栖川宮の口添えもあり、「お前の孫だと思って、万事遠慮なく育ててくれ」という大正天皇(当時東宮殿下)のお言葉で引き受けられた。
 川村大将は次のような養育方針を立てられた。1、心身の健康を第一とすること。2、天性を曲げぬこと。3、ものに恐れず、人を尊ぶ性格を養うこと。4、難事に耐える習慣をつけること。5、わがまま気ままのくせをつけないこと(甘露寺受長著「天皇さま」より)。
 今でも立派に通用する。幼児のしつけの大切さをしみじみと知る。
 大正の元号の出典が「易経」であるというのは新事実である。もともと元号は四書五経からとられる。「大正」、「天興」、「興化」の三つの候補があった。「大正」の出典の説はこれまで「春秋」と「易」があった。それが「易」の「大亨以正、天之道也」に由来することが明らかになった。
 大正生まれで、8月31日と誕生日を同じくする筆者はことあるごとに大正天皇を今後も取り上げたい。

(柳 路夫)

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