冬の日のことだった。
彼女が彼に言った。「あなたは、何を思っているの?」
彼は思った。「君は、どこを見てるの?」
彼女が彼に言った。「あなたの心がつかめない。私に向かって、もっと何か言って」
彼は思った。「君の視線の先に、僕は届いてるのかな?」
花のつぼみが色づき始めていた。
彼女の誕生日がめぐってきた。2人が一緒に過ごすようになってから、この日は桜見物の日と決まっている。今年で4回目だった。
鎌倉街道と平行に流れる川は、横浜市内を東南に下っていく。日曜の昼下がり、川べりは早春の香りがたちこめている。
2人は、並木道をただただ歩いていた。時折、彼が空を見上げた。彼女が雲の切れ目を数えた。彼女が桜の枝に向かって背伸びをした。彼が桜の実に手を伸ばした。彼が河原へ滑り降りた。彼女は、土手の上から水面を眺めた。
4年前は絶え間のなかった言葉が、年を重ねる度にとぎれとぎれとなっていった。
川沿いの公園で、彼は手にしていた包みを彼女に渡した。
「プレゼントはいらないと言ったのに」と、彼女はつぶやいた。
「気持ちが欲しいって言ったのに?」と、彼が、彼女の口まねをした。
「つかみたい、と言ったのよ」と、彼女がうつむいた。
「言葉にしなきゃ、気持ちはつかめない?」と、彼は語気を強くした。
彼女は、不思議そうに彼の顔を見上げた。
包みの中には、2つのグローブと硬球が1個入っていた。真新しい革の匂いがした。手になじむまでには、とても長い年月がかかりそうだった。
「グランドでキャッチボールをしよう」と、彼が彼女に言った。
2人は、すぐさま、キャッチボールに夢中になった。
彼が彼女のグローブめがけてボールを投げる。手加減を知らない彼の投球は、彼女が受けとめるには難しかった。そのベクトルは強さも速さも鋭くて、彼女のグローブは、痛そうな快音を立てた後に弾いてしまった。地面にこぼれたボールを拾い、彼女は彼に投げ返した。方角も高さもスピードも上手にいかなかった。的外れの彼女の投球に、彼はグランドを駆け回った。
言葉を交わすことなく、2人は一心だった。互いに、投げては捕って、捕っては投げての動作を繰り返した。
いつの間にか、太陽の日差しは斜めに傾いていた。
ふいに、彼は、ボールを空高く放り投げた。白球はゆるやかな放物線を描きながら、彼女の元へ飛んでいく。キラキラと輝いて宙を舞っていた。
「落とすなよー」と叫ぶ彼の声が、グランドに優しくこだました。すると、まるで、地球をまるごと包みこんだ幸福の大気圏に、彼女は吸い込まれるようだった。彼女は、距離をおいてさし向かいに立っている彼をじっと見た。瞬きを忘れるほどに胸がいっぱいになってきて、涙がこぼれ落ちそうになった。彼女はグローブの手でまぶたをおさえた。
ポトンと、ボールが土の上に落ちた。
彼は、彼女の視線を全身で感じた。その瞬間、彼のすぐそばを柔らかい東の風が通り過ぎた。風は、彼女の温もりを乗せてどこかへ行った。彼が風の行き先を振り向くと、それは果てしなく、はるか遠くまで届いていた。
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