寺井谷子さんの近著「四季を見る」(梅里書房刊)に安西冬衛の「てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていつた」がある。それに谷子さんの所感がつづられている。
「春」と題する詩。「谷子さん、この蝶はどちらへ渡っていったと思いますか」と聞かれ、そして困惑している私に、「どちらからでも構わないんですですよ」と言われた時の詩人のうれしそうなお顔が忘れ難い・・・
実ををいえば、筆者は何故か、蝶は日本へ韃靼海峡(間宮海峡)を渡っていったと思っていた。
安西冬衛は22歳の時、父の転勤に伴い、大連に行った。そこで仲間と同人詩誌「亜」を編集発行した(1924年から1926年)。「亜」19号にその詩がのっている。清岡卓行がその著書「アカシアの大連」に「春」の詩についてふれている。「この詩の発想も、大連という都会を地盤とすることなしにはありえないはずであった。そこでは、北方の韃靼海峡(間宮海峡)という地理的な国際性の荒々しい危難が舞台となっている。そしてその激浪あるいは凪の上を、若々しく可憐な生命を象徴する一匹の蝶が、大胆にも軽々と渡って行く」。この文章が頭に残っていてそう思い込んだようである。
明珍昇著「評伝 安西冬衛」(櫻楓社刊)によるとあらまし次のようなことがわかる。
「亜」19号に乗った「春」の詩には海峡の名称は間宮海峡である。しかも前書きに「軍艦北門の砲塔にて」とある。それが昭和4年に出された詩集「軍艦茉莉」では韃靼海峡となっている。作ったのは昭和2年の春である。 同じころの作で「韃靼のわだつみ渡る蝶々かな」がある。安西さんが畏敬した俳人、山口誓子に樺太時代を回想した「郭公や韃靼の日の没(い)るなべに」の句がある。また蝶は安西家の家紋である。アゲハチョウである。大連から韃靼海峡まで旅したわけでなく、あるいは樺太まで行ったのではない。前書きを文字通りとすれば、軍港旅順、あるいは大連に停泊中の軍艦の砲塔で飛び立つ蝶を見て詠んだのであろう。そう考えてみたものの、どうも、軍艦北門が怪しい。冬衛が北方、辺境を守る人間の意味であれば、北門は北の入り口を守る軍艦かもしれない。だから方向はどちらでもよいということになろう。韃靼のわだつみの上を健気にも飛ぶ蝶をイメージできればいいのである。
彼の詩のイメージからすると、妻子もなく、あてどなく放浪する隻脚の詩人という感じがする。ところが、大違いである。昭和3年、いとこの美佐保さんと結婚、二子をもうけた。右足はすでに大正10年、右膝関節結核で手術、切断している。大連に15年間在住したあと、昭和9年から堺市に住んだ。市の職員となり、文化的事業の推進にあった。戦後は関西の著名な文化人として多彩な活動をした。大阪読売新聞の人生案内を担当したり、毎日新聞映画コンクール審査委員、毎日放送番組審議委員をしたりしている。作詞した校歌、市歌、社歌、歌謡はかず知れない。
昭和40年8月24日、死去、享年67歳であった。友人の小野十三郎さんは弔辞で「日本の詩人のなかで君ほど言葉を愛し大切にし、言葉と現実との関係を綿密に考え計算して事に当たったいた詩人を知らない」と述べている(評伝安西冬衛より)。
(柳 路夫) |