2002年(平成14年)1月10日号

No.167

銀座一丁目新聞

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追悼録(82)

 「運命もその人の性格のうちである」といったのは、作家の芥川龍之介(昭和2年7月自殺、32歳)である。その意味がはじめのうちはよくわからなかった。だんだん年をとるうちに判ってきた。思い当たるふしがでてきた。その人の性格が運命を切り開くとも言い換えてもよい。とりわけ「左せんか、右せんか」人生の岐路に立たされた時、それがでてくる。
 「ルビコン河に賽はなげられたり」と、全軍を率いてローマに向かったジュリアス・シーザーの話は有名である。軍隊を率いて川を渡ると国賊となる。単身でローマへ行けば、宿敵ポンペイウスに殺されるのは目に見えている。進むも死、退くも死、シーザーは決断した。彼はその賭けに勝った。
 大連2中時代の友人、落合靖君(平成13年12月、死去、76歳)はこんな経験をしてる。敗戦の時、医科大学の学生として中国・ハルピンにおり、父親は15キロ離れたところで農場を経営していた。8月15日、街や村はたちまち無政府状態に陥いり、日本人への略奪がはじまった。たまたまハルピンにきていた父親と母親の安否を求めて、農場へ向かった。農場の近くで、母親が開拓団の女性や子供たちと一緒に2台の大車に乗っているところに出合った。大車の荷物を奪おうと近づいてくる満人たちを日本刀をふりかざしながら、ハルピンへ避難しに行く途中、道が二つに分かれるところにきた。父親は数日前から、右に行ったところにある大きな開拓団の人たちと打ち合わせて、万一のときにはそこへ集合することを決めていた。ハルピンにゆくまでよりはるかに近いので「右に行こう」といった。落合君はハルピンまで行ったほうが安全だと思うから「絶対、左へ行こう」と主張、押し通した。落合君20歳の判断であった。これが正解であった。間もなく開拓団の人たちは全員が青酸カリを飲んで自決したからである。恐らく彼等親子もまた一緒におれば巻き添えで死を選んだにちがいない。
 引き揚げ後、内地の医大へ転入学せず、服飾メーカーに就職、営業で腕をふるった。「戦後は儲けもの人生だ」と明るく、楽しく、粋に振舞った。平成8年ごろから、ガンに冒され、胃は三分の一、十二指腸は二分の一、胆嚢は全部切除した。幾度か生死の淵に立たされたが、そのつど「粘り勝ち」で生きぬいた。
 満州で始まった彼の「生と死のドラマ」は昨年暮れに惜しまれながら幕を閉じた。日ごろは物柔らかな物腰だが、土壇場での押しの強さ、ねばりこい性格が落合君の人生のドラマを演出したといってよい。

(柳 路夫)

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