1999年(平成11年)1月20日

No.63

銀座一丁目新聞

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小さな個人美術館の旅(58)

横山大観記念館

星 瑠璃子(エッセイスト)

  久し振りに上野不忍池(しのばずのいけ)のほとりに来た。このあたりの風景には一種いいがたい味わいがあって、いつ来てもそこはかとない郷愁を感じさせる。今日はよく晴れた冬の一日。背丈ほどもある蓮が茶褐色の巨大な化石のように立ち枯れて、その間をカモたちが嬉々として泳ぎ回っている。多い時には二万羽にもなるというカモは見ていると色々な種類があって、頭が黒く金色の目をして羽の白いのはキンクロハジロ、茶色い頭のホシハジロ、それにオナガガモが数の多いベストスリーだと立て札があった。弁天島へかかる小道(橋)の両側の杭の上に一羽ずつ赤い細い足で立っている真っ白な鳥はユリカモメだ。池を右に見ながらさらに少し進むと、池沿いの道の向かい側に横山大観記念館があった。

 「小生、下谷区茅町二丁目二十一に仮寓支候。観月橋を西へ渡りて右へ三軒目の二階家に御坐候」と大観が友人に転居を知らせたのは1908年(明治41)、四十歳の秋のこと。終戦の年の東京下町大空襲で全焼したが、戦後疎開先から帰って八十九歳で亡くなるまでの前後四十年間を画業に励んだ所である。転居通知には「右へ三軒目」とあるが、いまは沢山の建物が建って記念館の隣りは中華レストラン東天紅の大きなビル。当時はこんなものはもちろんなかった。昔、池の周りが競馬場だったという話を聞いたことがあるが、それはいったいいつごろのことだったのだろう。長い歳月を経て周辺は時代とともに変わったが、池そのものはさほど変化したとも見えず、時折、風に乗って都会のざわめきが潮騒のように聞こえてくる閑静な一角である。

 門を入ると表玄関と内玄関が並んでいるのは、当時こんな家の建て方があったのだろうか。大きな客用の玄関で靴を脱いで廊下を行くと、左側の一段高くなったところに庭を見下ろす客間があり、画家はこれを「鉦鼓洞」と呼んでいた。葦で葺いた船型天井をもつ京風数奇屋づくりの鉦鼓洞は、はじめ建築家志望だった大観が隅々まで細かく注文を出して作ったというたいそう美しい客間で、戦火にも焼け残って後に重要文化財に指定された木造の不動明王像が安置されている。床の間には「洞庭の夜」。中国の洞庭湖を描き、朦朧(もうろう)体を墨一色で試みたとでもいうべきひょうびょうたる作品で、「鉦鼓洞主」の印があった。

 廊下の右手は庭に面してもう一つの客間と居間。二階は一方に不忍池を、一方は庭を見下ろす大きな二間続きの画室で、ここまでが画家が住んだそのままの姿で一般に公開されている。「私の死後はこの地を個人財産としてでなく、公的財産として日本美術界のために役立てて欲しい」という大観の遺志に基づき、76年に記念館として開館したのである。

 階段の上り下りが不自由になった画家は晩年は階下の居間で制作をしたというが、その居間の床の間には「午下がり」と題する水墨画の軸。二階の画室には全長四十メートルからなる大観画中の超大作「生々流転」の「習作」。年に四回掛け変えるという展示のうち、この日は「水墨の世界」と題する展観の最後の日だった。「墨に五彩あり」は大観の有名な言葉だが、まことに変幻きわまりない墨の色だ。

 横山大観は1868年(明治元年)水戸藩士の長男として生まれた。十歳の時一家で上京。湯島小学校、東京府立中学(後の府立一中、現日比谷高校)を経て東京英語学校に学んだ後、89年(明治22)、新設された東京美術学校の第一期生となった。時の校長は岡倉天心で、これが運命的な出会いとなった。「岡倉先生がなかったならば、今の日本美術院もなかったろうし、もちろん我々もなかったろう」と書くほど心酔し、美術学校を卒業、そのまま学校に残って助教授として教えていた大観三十歳の時、美術界を揺るがしたいわゆる「東京美術学校騒動」なるものが起きて天心が美術学校から追われるや、自らも職を辞して天心を中心に日本美術院を創立した話はあまりにも有名だ。

 その頃から、日本美術院の同人で親友の菱田春草と雨を線で描くような東洋古来の線描表現を否定した、いわゆる「没線描法」に専念するが、それは日本画壇の「旧派」の人々から「朦朧体」と酷評を受け、さんざんな批判と揶揄の対象になった。「朦朧体」とは、色面による表現を重んじて描線をはっきり否定するものだったから、「旧派」の人々にとっては、日本画そのものの否定のように思われたのだろう。「まるで悪魔のように憎まれた」とは後の大観の回想である。「朦朧派」を嫌って一時は画商も寄りつかず、「飢餓寸前」のどん底生活で描いたと聞けば、パリで印象派が出て来た当時どれほど嘲笑を買ったかという話を思い出さずにはいられない。そんななかで大観、春草らは「十九世紀洋画の自然主義を受けとめつつ、それに対して洋画家のように追随せず、かえってそれを踏み台として洋画に対抗する新日本画を考案する道に出た」(河北倫明)のであった。

 記念館を出て、今度は池には向かわず、裏手の坂道を本郷の方へ登って行った。この道は森鴎外が『雁』で描いて有名な「雁の道」。上りつめたところに東大弥生門があるが、その手前の小道を右手に入ってゆくと、夏目漱石が『我輩は猫である』を書いた家(現在は明治村に移築されている)も近く、「猫」執筆当時の漱石と大観は時折の行き来もあったらしい。自然主義文学全盛の風潮に一人抗して『猫』を書き、やがては新しい日本文学を営々として書き継いでいった漱石と、あらゆる妨害にもめげず、「千万人といえどもわれ行かん」と独自の道を究めた一歳年下の大観と。こうした人々を通して、文字通り私たちの近代は作られていったのだな、などと考えながら、私はゆっくりと坂道を上がっていった。

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横山大観記念館

住 所: 東京都台東区池之端1−4−24 TEL 03-3821-1017
交 通:

営団地下鉄千代田線湯島駅より徒歩7分 又は JR上野駅より徒歩15分

休館日: 毎週月、火、水曜日、年末年始、梅雨時と夏期

星瑠璃子(ほし・るりこ)

東京生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業後,河出書房を経て,学習研究社入社。文芸誌「フェミナ」編集長など文学、美術分野で活躍。93年独立してワークショップR&Rを主宰し執筆活動を始める。旅行作家協会会員。著書に『桜楓の百人』など。

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