2001年(平成13年)9月1日号

No.154

銀座一丁目新聞

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追悼録(69)

 同期生、長井五郎君はその著「青春の賦」−わが回想の陸軍士官学校−に政治家、中野正剛を次のように書いている。
 ―10月29日、習志野の野営から帰校した五郎はあの出陣学徒壮行会のあった21日に、代議士、中野正剛が逮捕され、26日に釈放されてその夜半、自刃したことを知った。中野正剛については五郎は一面識もないが、長兄の要三郎から中学時代に、東方会という右翼団体をひきいて立つ日本の右翼の大立て者で、大雄弁家とも聞いていた。なぜ割腹自刃をしなければならないのか、報道されないので理由がよくわからないが、何か暗い時代に入ってゆく日本を象徴するように思えてならない−
 同期生の一人がこのような思いをしていたとは全く知らなかった。実は、私は10月31日の日曜日(昭和18年)青山斎場で緒方竹虎を葬儀委員長として、執り行われた中野正剛の葬儀に参列している。たまたま、日曜外出で陸士入校の際、保証人になっていただいた、東京・中目黒の河本幸村さん宅を訪ねたところ、「これから中野さんの葬儀に行く。君もこないか」と誘われたのである。
 中学2年生のとき、寄宿先、大連振東学社の舎監、大田誠さんの書斎で10数人の塾生とともに中野さんの話を聞いた。中野さんは振東学社の総裁でもあった。話の内容は覚えていないが、その人物の大きさに圧倒された。昭和14年3月ごろで、中野さんが中国視察の途中立ち寄られたのだと思う。友人の話では私たちの大連2中で、、全校生徒にも演説をしたという。記録によれば、中野正剛は大正9年にも大連振東学社を訪れている。この時の舎監は漢学者の金子雪斎先生であった。
葬儀に参列してびっくりした。憲兵の姿が目立った。恐らく、陸士予科生徒は私一人だけであったろう。すこし軽率だったかと反省しながらも、人生の先達の非業な死に弔意を表わすのも当然のことと思いなをして頭をさげた。
 無理もない。その年の1月1日、朝日新聞で「戦時宰相論」を書き、東条英機首相を批判し内閣倒壊工作もして、軍部からにらまれていた。10月21日、逮捕された罪名は「陸軍刑法と海軍刑法」違反であった。その内容は陸軍と海軍との間に作戦の不一致があり、そのためガダルカナルの会戦は失敗し数万の犠牲者を出したと二人の東方会員に語り、造言蜚語したというものであった。2月に2万5千人の損害を出して、日本軍はガダルカナルから撤退している。
 遺書には「俺は日本を見乍ら成仏する。悲しんでくださるな」とあり、書斎の机の上には大楠公の像と雑賀博愛著「大西郷全伝」の第二巻が置かれていた(中野泰雄著「政治家/中野正剛」上より)。
 その日、帰校してすぐ区隊長に報告にいった。区隊長からは中野正剛のこと振東学社ことなどくわしく問いただされた。金子雪斎先生の国家社会主義についても語る羽目になった。
 4月に山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、5月にはアッツ島守備隊玉砕、7月、キスカ撤退と戦況は日に日に悪くなっていた。その夜、57歳で己の命を絶った政治家の心境をあれこれ思いつつなかなか寝付かれなかった。青春の日の思い出である。

(柳 路夫)

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