不慮の事故が起って人の命が危険にさらされたり、失われたりするたびに、“明日”を生きることの難しさを痛感する。特に昨今のように、新聞紙面にむごたらしい事件が連日のように報道されたり、また近隣地区における犯罪が多発してくると尚更のことである。
若い時は他人の死に直面しても、自分になぞらえて考えることはなかったが、齢を重ね、先行きが見えてくると、そのゴールに向かって一歩一歩近づいているという死生観にも囚われる。“元旦や冥土の旅の一里塚”というあの心境である。
ところが過日、仏教講座を聞いていたら、この考え方が根本から違っていると語られていた。仏教では“死”は決してタブーではなく、生を受けた瞬間からの“決まりごと”であって、いつ訪れても不思議ではないもの。しかし、それを無闇に恐れるのではなく、生かされている今を大事に生きることだ――と。
残り時間を引き算として考えると、つい刹那的になってしまうが、一日一日を積み重ねて行くと考えれば、むしろ足し算なのだと言うその考え方に、その時は納得した。
しかし、一日、一週間、一ヶ月と余りにも早く月日が流れてゆくと、なかなか積み重ねとは考えにくい。やはり、凡人の私は残り少なくなって行く、と考えた方が妥当のようだ。それ故、一日一日を大切に、悔いのないように生きる。だが、この残り時間というのが定かでないために、計画通りにことが運ばなかったり、欲がでたり、焦ったりするのだろうが、この曖昧さが救いかもしれない。
娘夫婦は、お互いに万一不治の病と宣告されたら、娘は何も知らされないのは厭だから、ハッキリ告知して欲しいと言い、連れ合いは知りたくないから何も言わないでくれ、と約束したという。私も弱虫だから、じわじわと死と向き合ったら耐えられないかもしれないから、余命幾ばくもない、などというハッキリした告知など受けたくない。
今のような物騒な時代にも、まだ寿命という言葉が通用するなら与えられた寿命をまっとうしたいものだ。
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