2001年(平成13年)7月10日号

No.149

銀座一丁目新聞

ホーム
茶説
追悼録
花ある風景
横浜便り
水戸育児便り
お耳を拝借
銀座俳句道場
告知板
バックナンバー

花ある風景(63)

 並木 徹

 国際法の権威である法政大学名誉教授の杉山 茂雄君(陸士59期)の話を聞く機会があった(7月3日、同台経済懇話会研究会)。とりわけ、軍事同盟のくだりを、先の日米首脳会議を思い浮かべながら聞き入った。
軍事同盟とは、くだけた言い方をすると「待ったなしに助け合う」提携関係をさす。杉山君は日英同盟を例にあげた。その推移はたしかに参考になる。日英同盟ができたのは1902年1月。日本が戦争に巻き込まれた際、英国は中立を守りるというもの。区域は清国、朝鮮の安全保障である。この同盟に対する日本人の喜びは大変なもので、慶応の学生が英国大使館前に集って万歳を叫んだと言う(山梨勝之進著「歴史と名将」毎日新聞刊)。 これで日本は日露戦争に応じる対策ができた。
 更に3年後に改定同盟条約ができた。日露戦争の講和条約が開かれる寸前で、今度は、攻守同盟に変り、地域は東アジア、インド全般となった。期限もいままでの5年から10年に延長された。これはロシアにたいして「お前は仇を取ろうと思ってもだめだぞ」という意志表示であった(前掲の書より)。
 1910年(明治43年)に日本が韓国を併合したため条約の文句を直す理由があって、44年に改定した。1921年(大正10年)ワシントン軍縮会議で四国協商にとってかわって日英同盟がなくなった。後にチャーチルは日英同盟を破棄したことを「イギリスの失敗であった」と悔やんでいたという。
 同盟といってもその形はさまざである。こんな話もある。日露戦争の時、バルチック艦隊がリバウ軍港を出港、東航の途についた。イギリスの沿岸で、イギリスの漁船が一斉にライトをつけて操業をはじめたのを日本駆逐艦の来襲と誤認し砲撃する醜態を演じた。困ったのはフランスである。露仏同盟(1891年、はじめは政治協定で後に軍事協定も加わる)を結んでおり、ロシアがイギリスと戦争ともなれば、イギリスと戦争しなければいけなくなる。英露の交渉をハラハラしながら見守り、土壇場で仲介の労をとってことを収めた。
 日本、ドイツ、イタリヤの三国同盟(1940年成立)では途中にイタリヤが裏切って日本とドイツに宣戦布告するとんでもない同盟もあった。背信はいつまでも歴史から糾弾される。
 日米安保条約は軍事同盟である。有事立法はそためのものである。憲法9条との関連でどう考えるのか、はやく答えを出さなければならない。日米首脳同士に「温かな雰囲気で本当のきずなが生まれた」のはよいことだ。その絆のなかから、独立国日本にふさわしい同盟のあり方をうみだしてほしい。

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。
www@hb-arts.co.jp