2001年(平成13年)5月1日号

No.142

銀座一丁目新聞

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花ある風景(56)

 並木 徹

 変革の人、小泉 純一郎首相の登場である。時代の流れは明らかに「変革」を求めている。これまでの知事選挙の結果が示す通りである。その流れが今回は永田町の論理を突き崩し、利権をあさり、党利を優先する政治に自民党の党員、党友が拒否反応を示したといえる。その意味では画期的な出来事である。
 小泉首相に寄せる期待は大きい。
 首相は珍しく独身だという。敗戦直後の吉田 茂首相もそうであった。この二人意外にも類似点がある。一つは期せずして首相の座が転がり込んできたことである。
 吉田首相は昭和21年4月、戦後、初の総選挙で第一党となった自由党総裁、鳩山 一郎が首相になるはずであったが、公職追放のパージにかかり、思いかげずに吉田にまわってきた。時に69歳であった。
 小泉首相は今回の総裁選挙では敗北覚悟で小派閥から立候補した。最大派閥の橋本 竜太郎に勝てるはずがなかったが、脱派閥と解党的出直しを主張、変革を求める時代の波にのり、思いもかけない勝利を得た。時に59歳である。
 二つは全くの未経験の難局に直面した点である。
 吉田首相の時代は敗戦直後で住む家もなく、食べる物もなく、国民もすさんでいた(21年5月には「こめよこせ」騒ぎもあった)。しかも、GHQの占領下にあり、占領政策の目的は日本を二度と軍国主義国家にしないことで、このために、憲法の改正、財閥解体、教育改革などを実施した。吉田首相は新憲法を押し付けられた。単独講和か全面講和かで議論が分かれる中、サンフランシスコ講和条約に調印した。全面講和を唱える学者を「曲学阿世の徒」と切り捨てたのは有名な話である。この調印と同時に日米安全保障条約をたった一人で調印している(26年9月8日)。
 それから50年、小泉首相の出番である。日本は戦後初めてのデフレに見舞われたとはいえ、国民は飽食の時代をむかえている。休みとなれば、どっと海外旅行に出かけるものも少なくない。現実はバブル崩壊による不良債権で金融システムが危機にさらされている。国の債務666兆円。国際社会からは内需の拡大と金融システムの安定を求められている。構造改革なくして景気の回復もなければ、日本の飛躍もない。破滅の恐れすらあると指摘する人もいる。また、憲法も議論しなければいけないし、有事法制も考えなければいけない時期にきている。敗戦直後に比すべき難局であるといえる。
 小泉首相がリーダーシップを発揮して構造改革のための諸政策を実行するかどうかである。派閥の力に負けず、政権与党の公明、保守両党とのきしみに堪え、参院選に成果をあげることができれば、意外に長くづづくかもしれない。
 吉田内閣は第一次が約一年で片山 哲内閣、芦田 均内閣のあと第二次(昭和23年10月)から第五次(昭和28年5月から29年12月まで)と7年余続いた。
 二人のキャリアは全く異なる。吉田首相は外交官出身、駐英大使も勤め、戦時中は軍部ににらまれ憲兵隊に拘置されている。夫人は牧野 伸顕の長女である(昭和16年10月死去)。ワンマンであり、貴族趣味であった。
小泉首相は、祖父は逓信大臣、父は防衛庁長官、自らも厚生大臣、郵政大臣をつとめたことがある政治一家である。集金力は国会議員の平均というから、これまでの派閥の親分としては考えられない。それだけに魅力的ですらある。
 「十八史略」は「人を見る明」を次のように解説する。
 第一、人相をみる。
 第二、出処進退の退をみる。
 第三、応対辞令、つまり言葉のやり取り、態度を観察する。
 第四、修己治人、徳の人であるかどうか
      (伊藤 肇著「十八史略の人物学」)
 国民は冷静に小泉首相を「人を見る明」で見守っていこう。

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