2004年(平成16年)3月20日号

No.246

銀座一丁目新聞

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追悼録(161)

学校教育とは何か・・・

  新聞記者の手ほどきをしてくれた岡崎の福岡寿一さん(故人)の「閑話休題」(昭和62年4月刊)をなにげなく見ていると、「ある政治家の死」と題して中野四郎を取り上げていた。中野さんは代議士(愛知4区)で第一次大平内閣の時(昭和53年12月から昭和54年11月)、国土庁長官もやっている。彼が碧南市の市長時代(昭和31年)、社会部の企画記事のネタ探しに取材した。戦争直後の隠退蔵物資について面白い話を聞かせてくれた。豪快でざっくばらんな人物であった。福岡さんが中野さんと知り合ったのはやはり碧南市長時代で、「東海タイムズ」に中野さんの「時事放談」を連載したのがきっかけであった。それ以来気があって仲良しになったらしい。
 昭和60年10月21日になくなった中野さんは、どじょう屋のせがれで、小学校卒業後、単身上京を決意して「東海道線を線路伝いに歩いて行けば東京にへ着く」と、ひそかに家を出た。東京までの距離はざっと350キロ、一日30キロ歩くとして東京まで11.6日は掛かる。昨今家出するにしても歩いて東京に行こうと考える子供はまずいないであろう。ところが、あとからそっとつけてきた父親から「路銀」を手渡されたという。上京した中野少年は新聞配達して夜間中学に通った。ある時は一週間焼き芋だけということもあった。当時「第三帝国」という雑誌を発行して筆陣を張っていた茅原華山に深く傾倒、門下生となってその感化を受けた。華山は大正初期の若者にとっては忘れられない存在で、中野少年も彼から政治理念の根本をしっかりと教え込まれた。やがて院外団活動から東京市議会議員にという中野さんの政治生活への新しい出発がはじまった。交友関係は広く、作家の山岡荘八、漫画家の近藤日出造、講談の宝井馬琴などは飲み友達であった。
 福岡さんは「戦後のサラリーマン代議士の多い中では際だってスケールの大きい名物男で一選挙区の小さな枠にはとてもおさまりきらない人物であった」と評する。かって菊池寛は、吉川英治と長谷川伸を例に挙げて「今日の学校教育のダメな事はこの2人を見れば分かる。2人とも学校教育を全然受けていない人間だ。学校教育に毒されていない人たちだ」と言ったそうである。中野さんについても同じ事がいえる。中野さんがなくなってから18年余、今更のように学校教育とは何かということを考えさせられる。

(柳 路夫)

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