1999年(平成11年)9月10日号

No.84

銀座一丁目新聞

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小さな個人美術館の旅(78)

龍子記念館

星 瑠璃子(エッセイスト)

 真っ白な大きなハスの花を担いで先導する二匹の河童(かっぱ)。後ろには、頭の皿の上に卵を抱えたままのお供え鳥を捧げた河童が従い、そのまた後ろ、肩車に乗ってつつましく運ばれるのは、これからお嫁に行く河童だろうか。ピンクのハスを髪飾りに、大きな葉っぱの天葢をさしかけられてうつむきかげんに行く。まわりには婚礼料理の鯉をまるごと抱えた河童だの、あわてて水にもぐる蛙だのスッポンだの…。

 ここは東京馬込の龍子記念館。入口を入ったとっつきの、いとも涼しげな大画面に、炎天下を駅から二十分も歩いてきた私の汗はいっぺんにすうっと引いてしまった。それにしても、なんとのびのびと楽しく洒落た絵だろう。うっすらと碧い水の中で躍動する河童たちの、この自由自在な姿態ときたら。絵空ごととは思えない、淀みなくリアルなタッチ、的確なデッサン力、表現力。そこから生まれてくる何ともいえぬおかしみ。晩年の龍子河童は青龍展の名物ともなったが、この「沼の饗宴」はその第一作だ。私は川端龍子(かわばた・りゅうし)という画家がすっかり好きになってしまった。まだ美術館を入ったばかりというのに。

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龍子記念館

 もちろん、これまでこの日本画の巨匠の名を知らなかったわけではない。その作品も折にふれて見てきた。しかし、今日のこの喜びは何だろう。河童のお出迎えがきいたのかしら。

 1962年、画家は喜寿を記念して、自宅前に自費で社団法人龍子記念館を竣工した。龍が蛇行(?)する形をアレンジしたユニークな設計は画家自身のものというが、健剛な芸術、「会場芸術」を唱え、大画面をものし、日本画の革新に尽くした画家らしい堂々たる美術館である。没後二十五年目の91年、所蔵作品とともに大田区に寄贈され、大田区立龍子記念館となった。

 年に四回かけ替える展観の、今回は夏期名作展の終わりで、河童をはじめとする作品がすっきりと並んでいた。「沼の饗宴」の他にも河童作品は沢山あって、洋画から転向した画家らしい油絵風の「酒房キウリ」や「河童青春」、墨絵っぽい「考える」や「胡瓜」などいずれも興趣つきないなかで、私は白梅の枝の下を泳ぐ河童、「寒泳」が気に入った。鋭い眼光がなんだか画家自身を思わせる気がして。もっとも龍子画伯にあったことはない。入口に掛けられた肖像は大口を開け、前歯の金歯をむきだしにして笑っている写真だけれど。

 いくら眺めても見飽きない「沼の饗宴」についつい時間をとってしまったが、この日の展観の眼目は、やはり「臥龍」と「渦潮」の超大画面だったろうか。殆ど墨一色で、画面からはみださんばかりに巨大な龍を描く前者は終戦の年、六十歳の作。「日本の無条件降伏を知るや、構想を練った結果がこの『臥龍』となった。この歴史的年度にあって、あらゆる団体が活動を停止したのに対し、わが青龍社だけはその機能を失わず、第十七回展を続催した」と、作者自身の言葉が記されてあった。ちなみに画家は終戦の日の二日前、庭先に落ちた爆弾で自宅を焼かれ、前年には四十年近く連れ添った妻と息子を失っている。息子はニューギニアでの戦死だった。

 幅七メートルを越す「渦潮」は画家七十一歳の作だ。巻きこまれ、吸い込まれそうな鳴門海峡の幾百の渦は、見ているうちに白い龍となってものすごい迫力で迫ってくる。青龍社樹立第一回展に出品した作品も「鳴門」だった。こちらは轟々と渦巻き泡立つ鳴門の大景を群青の輝きで描いて龍子芸術のモニュマン、昭和の名作と絶賛を集めたが、この「渦潮」はそれに勝るとも劣らない。

 川端龍子は1885年(明治18)和歌山市に生まれた。生家は何代も続く富裕な呉服商だったが、少年の頃にはすでに家運傾き、十歳の時、新しい職を求めた父親とともに上京。府立第三中学校を卒業する頃、ようやく画家志望を父に認められ、働きながら白馬会洋画研究所や太平洋研究所に通うようになった。けれども、時事新聞の懸賞マンガに投稿して賞金を得たり、「ハガキ文学」の表紙や挿絵を描いたり、当時流行のマンガ雑誌に勤めたりしながらの絵の勉強は殆ど独学だったのである。

 後の龍子に大きな影響を与えたのは、国民新聞への入社だった。その新聞で大好きだった挿絵を担当する記者が亡くなったことを紙上で知り、社会部長宛に挿絵を添えた長文の自己推薦の手紙に出したのが認められて入社したのである。亡くなった挿絵担当の代わりとしては、すでに日本画家の平福百穂(ひらふく・ひゃくすい)が入社しており、まずはカット描きとして編集局に百穂と机を並べるのだが、八歳年長の百穂の奔放な日本画技法、伝統的な流達な毛筆の手法、線描による自由で新鮮な挿絵に大いに触発されることになるのである。

 新聞社の仕事を精力的にこなしつつ、第一回、第二回文展に入選した龍子だったが、一方で早くから抱いていた外遊の望みを捨て切れず、滞在費用を工面し、新聞社に在籍のまま妻子を残して単身渡米する。アメリカで働いて何とかヨーロッパへとの二十八歳の龍子の望みは、しかし簡単にうち砕かれてしまった。当時のアメリカは大変な不況で、日本人が働く余地など殆どなかったのである。これではヨーロッパへ回るどころか日本にも帰れなくなってしまう。ぐずぐずしないで新規まき直しでやろうと決心したのは、三ヵ月のサンフランシスコ滞在の後、国吉康雄などもいたニューヨークへ着いて二日目のことだった。新聞社に「帰国の費用を拝借願いたい」と電報を打ち、せっかくアメリカまで来たのだからと帰りはボストンへ寄ることにして帰国の準備をしたのである。

 ボストンはアメリカでも美術の中心といわれ、立派な美術館があることを知ってはいた。けれどもボストン美術館に世界的権威の東洋美術が収蔵されていることも、そこに大先輩岡倉天心が関与していたことも知らない若い洋画家川端龍子は、その後の生涯を決める大きな体験をすることになるのである。

 「東洋の芸術がこれほどに高雅なものであることに心を打たれ、日本の伝統芸術というものにも改めて心を動かされた。ことに長いケースの白い布を取りのけて、係員が見せてくれたのが『平治合戦絵巻』で、これを見たとき私はわれわれの祖先の芸術の崇高さに胸が熱くなった。そして日本人であるという意識が心の底からわき上がってくるのだった」(『私の履歴書』)

 「日本画家」川端龍子の誕生だった。帰国した年に、たとえ生活がどんなに苦しくなろうとも絵筆一本で立とうと新聞社を辞め、背水の陣を敷いた。日本画の材料も、その使い方も知らぬ「日本画家」は、パステルを粉末にして描き始めた。

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龍子記念館

 その後の足跡はつとに知られる通りだ。院展を経て四十四歳で青龍社を結成、五十二歳で芸術院会員を辞退するも、七十四歳のとき文化勲章を受賞。頑健な心身と新聞社時代に培った時代に対する旺盛な好奇心をもって描き続けたが、最晩年には膝の故障に見舞われ、絵が描けない画家など意味がないと自ら食を断って、八十歳の生涯を閉じたのだという。

住 所: 東京都大田区中央4−2−1 TEL 03-3772-0680
交 通:

都営地下鉄浅草線「西馬込」下車 徒歩十五分

休館日: 月曜日(祝日の場合はその翌日)年末年始 展示替え期間

星瑠璃子(ほし・るりこ)

東京生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業後,河出書房を経て,学習研究社入社。文芸誌「フェミナ」編集長など文学、美術分野で活躍。93年独立してワークショップR&Rを主宰し執筆活動を始める。旅行作家協会会員。著書に『桜楓の百人』など。

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