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小さな個人美術館の旅(77) 梅野記念絵画館 星 瑠璃子(エッセイスト) 信州は北佐久郡北御牧村(みまきむら)。千曲川を眼下に、浅間連峰を望む美しい小さな村の「芸術むら公園」の一画に、北御牧村立梅野記念絵画館ができたのは昨年、1998年のことだ。 東部・湯の丸インターで上信越自動車道を下り、抜けるような青空に向かって山道を登ってゆく。こんなところに美術館があるのかしら、とちょっと心配になりかけた頃、道はからりと開け、小さな「湖」の向こうにそれらしい建物が見えた。栗林の中の小道を行くと、涼しげな木陰に車が二、三台とまっている。裏口に出てしまったらしく、駐車場などというものはない。門とか玄関らしきものも見当たらない。自然のなかに、まるで自然に溶け込んでしまったように佇んでいる建物、それがこの美術館だった。 それにしても、梅野記念絵画館は「不思議な」美術館だ。
なぜ不思議かといえば、ふつう美術館というものは功なり名遂げた画家の作品を揃えて人を集めるものなのに、ここではあまり人に知られない、あるいは忘れられた画家の作品を展観の中心に置こうというのだから。 もちろんそれだけではない。写実主義を脱却し、独自のロマン的画風をつくりだした明治の洋画家青木繁と同窓で、ともに東京へ出て学生生活を送ったという梅野満雄と、その息子の隆、親子二代にわたる梅野コレクションの寄贈によってできた絵画館は、青木の貴重なデッサン類や作品を常設しており、他にも古賀春江、坂本繁二郎、梅原籠三郎などいわば「著名な」画家の収蔵作品も少なくない。しかし、それにもかかわらず「知られざる」作品にあえて焦点をしぼろうというのは何故か。気になるといえば気になることで、一度この絵画館を訪ねてみたいと思っていたのである。 久留米の中学で青木と同窓だった梅野満雄は、早稲田大学の文学部で学んだ後郷里へ帰り、晴耕雨読の生活を送った人だが、二十八歳という短く不遇な生涯を終えた天才青木繁の生涯にわたる友であり、またパトロンでもあった。いまでこそ知らぬ人のいない、けれども当時はまだ顧みる人も少なかったその作品を、散逸を恐れて長い年月をかけて集めたのは彼が最初だった。 息子である梅野隆も、父と同様、不幸にして正当な評価を得られずに時代から忘れられてゆく画家の掘り起こしに情熱を傾けた。サラリーマン生活のかたわら東京・京橋に画廊を開き、作品の収集と研究に努めたなかでも、最も力を入れた一人が菅野圭介だった。 青木繁と菅野圭介。この不思議な取り合わせによる展観が、梅野記念絵画館の開館一周年を記念して開かれているというのだった。しかも先ごろ亡くなった三岸節子を追悼する作品も参考展示されていると聞けば、これを見ないわけにはいかない。
靴を脱いで上がるとそこは広々としたロビー兼ティー・ルームで、すぐ下の明神池(さっき湖と思ったのはこの池だった)に向かって大きく開いたガラス越しに、信濃の山々の輝くばかりの大パノラマが手にとるように見える。鳥帽子岳、湯ノ丸山、籠ノ登山、三方ケ峰、高峰山、黒斑山、浅間山、剣ケ峰……。浅間山のところにだけ、ふうわりと白い雲が浮かんで頂上を隠している。 待つほどもなく、作務衣を着た梅野館長が現れた。色浅黒く、眼光鋭く、がっしりとした身体つき。片岡球子が描きたくなるような「面構え」だ。今回の特別展の、いわば導入部ともいうべき三岸節子の二つの展示室から館長自身による懇切な「解説」が始まり、それは菅野圭介の部屋に入るとますます熱がこもった。身をすりよせるようにして、二人がいかに影響を及ぼしあったかを微に入り細にわたって語るのである。 菅野圭介は、三岸節子の二番目の夫となった人で、およそ三岸節子を知る人ならこの名を知らない人はいないだろう。三岸好太郎が亡くなって三年目の秋、彼は忽然と節子の前に現れ、その魂をとりこにしたのである。節子より四歳年下、京都大学を中退してコミンテルンに入り、ロシアを経てフランスから帰ったこの異色の画家は、その時まだ二十八歳だった。未亡人と年下の画家との恋はやがて画壇の人々の恰好のえじきとなり、戦争も重なって、いったんは断絶。戦後再び出会って「別居結婚」をするが、菅野が別の女と暮らし始めて、足かけ十七年の苦難に満ちた恋に終止符が打たれるのである。 その菅野圭介の、最近では殆ど見る機会がなくなっていた作品を堀り起こし、画集を出し、再評価のきっかけをつくったのが、梅野隆さんだった。 比較的大きな作品が数十点、広々とした二つの展示室に並べられていた。それは何という不思議な、魅力的なフオルムだったろう。そしてその色。その「赤」。 「好太郎と私は、画家としての天性は異質だった。好太郎の絵はポエジーで、色数などは少ない。私には色がある。赤い色があるんです」と三岸節子は語っているが(林寛子聞き書き『修羅の花』)、この菅野の赤ときたら。節子の赤と全く同質の赤ではないか。暗くて明るく、冷たくて温かく、底なしに深いこの「赤」――。 菅野と出会った頃については、同じ本の中でこう語っている。 「彼の家へ行きますと、アトリエのずっと高いところまで絵が並んでいる。いままで見たこともないフオルムを持っていて、色彩が鮮やかで非常に赤っぽい。赤と黒を混ぜたような、情熱的な色彩なんです」 やっぱりこの二人の出会いは運命的なものだったのだろう、と、広い展示室を幾度となく回りながら私は思った。 菅野は節子と別れて十年後、殆ど人から顧みられることなく、食道癌で死んだ。享年五十四歳。一方、節子は画家として輝かしい光に包まれて天寿を全うした。そしていま、わが梅野館長は菅野の真の甦りを期して力の限り戦っている、そんなふうに私には思えた。 「村では文化の普及というようなことを言いますが、私はそういうことはあまり考えない。この美術館、この展観のひとつひとつが、私の表現なのですから」 断固として、という感じで梅野さんはそう言った。こういう美術館は少ない。
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