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ゴン太の日記帳 (41) 目黒 ゴン太 中学校時代から仲の良かった友人の母親が先日、他界された。奇しくも、昨年、自分の母が患って、亡くなってしまった原因の病と全く同じ個所のガンであった。又、どういうことか、年齢も全く同じであった。そんな訳で、以前から、その友人と会ったり、電話等で話す際、自然と自分の母の時の体験談等を聞かせたり、又、彼の母親の病状の進み具合を聞いたりし、自分の母の時と照らし合わせたりすることが多くなっていた為、彼が、突然、深夜に、電話をかけてきて、彼の母の訃報を聞いた時も、あまり驚かず、自然に応対した。 何故か、彼の家の家庭環境は、自分の家と似ている点多く、父親とうまくいっていない所まで、似ていて、葬式の時、喪主を務めねばならなかった。当然、あまり悲しみにひたっている余裕もなく、ただただ次から次へと来て下さる方々の応対に追われている彼の姿は、ほんの半年前の自分と、ダブって見える程に似ていた。だから、と言うか、そのぶん、手伝いに行っていた自分は、彼の心境が自分のその時の心境と同じ様なものであろうことが、想像することは困難なことではなかったのだ。まだ、現実として母親を失ったことを理解できていないでいる。また、着馴れない喪服に身を包み、通夜会場という、普段の生活からは、かけはなれた非現実的な世界で、聞き馴れない言葉や、馴れない雰囲気の中で、その式の当事者として、気を張って立っていなければならないという使命感や、今後の生活に対する漠然とした不安等も加わり、なんだか、地に足が着いていないとでもいうか、まるで、海に一日中入っていた後に味わう何とも言えぬ浮遊感が、重く、重く、頭の中を支配していた時のことを等を思い出してしまい、そんな状況にいるであろう彼を見ていたら、いたたまれぬ気持ちでいっぱいになってしまった。そして、次に、自分が考えたことは、そんな状況下にある彼に対する自分の態度であった。 自分が、半年前にあったその時、周りにもし親しい友人が来てくれていたら、何と言って欲しかったか、どういう態度で接して欲しかったかと、必死で思い返した。そして、答えは、すぐ見つかった。それは、ただただ、いつもの通り、普通に接して欲しかったのだった。自分が母を亡くした時、周りの友人達は、それを伝えると、当事者であった自分より動揺し、不自然にとりつくろい、ぎこちない、普段口にしないような言葉で、なぐさめてくれたり、心配してくれたりした。確かにとても有り難く感じたことは覚えているのだが、自分が期待していた反応とは、とかくかけはなれたものばかりであったとも言える。 期待していた反応、それは、いつもの、普段付き合っている中での言葉であり、対応であった。しかし、これを、突然、求められても周りの人達には、変なことであろうかとも思える。実際、以前、母を亡くす前の自分がそうであったように、人が亡くなったと聞けば変に構えてしまうし、まして遺族にかけてやる言葉を見つけるのに、大変苦労していた。そして、挙げ句の果てに、何を言いたいのやら訳の分からぬ言葉を並びたててしまったりしていた程であった。しかし、肉親を亡くし何もかもが変わってしまうように思える程、錯乱状態の時、親しい友人に求めるのは、いつもと変わらず自分の周りにいると安心できる人なのではないかと思う。少なくとも、自分もそうであったと確信し、とりあえず、いつもと変わらぬ言葉遣いや態度を、失礼のないようにすることを心掛けた。 告別式の翌日、彼から電話があり、会って話していた時、その時のことを感謝されたのだが、これは、自分で学んだことではない気がしていたので、複雑な気分になった。どう考えても、自分の母が最後の最後で、教えていってくれたことのように思えてならないのである。そしてもう一つ、何事も体験せねばわからないことばかりであるし、経験は財産、人生は何事も勉強である、と誰が言ったか分からない、これら言葉は、全く正しいと身にしみて感じたのだ。
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