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小さな個人美術館の旅(71) 黒田記念室 星 瑠璃子(エッセイスト) 文化財研究所の半分開いた鉄の扉を入り、古びた階段を登って行くと「黒田記念室」があった。
日本近代洋画の父、黒田清輝の名前を知らない人はいないだろう。江戸末期から明治初期にかけて、西欧的油絵の導入を志した初期洋画家の中でひときわ輝いているのが「鮭」で有名な高橋由一。日本の洋画の歴史はその後ぷっつりと途絶え、黒田清輝の登場によってふたたびその歩みを始めたように見えるのだが、ここはその黒田の遺志によってできた「小さな美術館」だ。 収蔵作品は最初期から絶筆まで油絵百二十六点、デッサン百七十点などで、随時陳列替えを行いながらその一部を展観している。1930年(昭和5)帝国美術院付属として開設され、52年(昭和27)に東京国立文化財研究所美術部所属となった。 入ってすぐの正面に、かの有名な「湖畔」が飾られている。芦ノ湖の湖水と対岸を背景に、紫色を帯びた淡い水色の着物を着てうちわをもって坐る女性はのちの黒田夫人照子で、1897年(明治30)、白馬会の第二回展に出品された。いまの私たちの目から見れば典雅なといっていいくらい静かで落ち着いた作風だが、フランス印象派を日本にもち帰って根づかせ、やがてはそれを一種の「権威」にまでしてしまった、これはそのきっかけとも言える「革新的な」作品であった。洋画旧派の「脂(やに)派」に対して「紫派」という言葉が言われ始めたのもこの頃からのようである。 明治美術会に対抗して、黒田が久米桂一郎らと白馬会研究所を興したのはその前年だった。研究所という名前が日本で使われた最初というが、ここに真先に入ったのが高木背水以下五人。後に白滝幾之助らが加わっていわゆる白馬会会員となった。ついでながら、黒田よりずっと年下の高木背水は私の母方の祖父である。彼はその後日本の洋画の主流となったフランスではなくイギリスに渡って学んだため画壇では傍系の位置に甘んじなければならなかったがそれは余談である。 1996年(明治29)というその年はまた、それまで洋画が完全に排除されていた東京美術学校(現東京芸大)に初めて洋画科が設けられ、フランス留学から帰って間もない当年三十歳の若き黒田が主任教授に迎えられた年でもあった。 黒田清輝は1866年(慶応2)、薩摩藩の上級士族黒田清兼の長男として鹿児島で生まれた。五歳の時伯父清綱の養子となり間もなく上京して麹町の養家に入った。清綱は後の元老院議官、子爵である。 清輝は早くから狩野派の画家について学び、東京に出てからは漢学塾や剣道の道場に通うなどいわば伝統的な武士の教育を受けるかたわらフランス語を学び、十八歳の時パリへ渡った。はじめは法律を学んでいたが絵画への志絶ちがたく、養父を説得して法律大学校を中退しアカデミー・コラロッシのコラン教室で油彩画を正式に学ぶようになった。若き日の黒田がパリから、あるいは大好きで滞在したパリ近郊グレーから養母へ宛ててしきりに書いた手紙を読んだことがあるが、西洋の絵画に魅せられてゆく心のひだや、ふるえるようなおののきが伝わってくる美しい手紙だった。十年間みっちりと研鑽を積み、サロンでの入選も果たして帰国した。
絶筆といわれる「梅林」は、それまでの黒田の作品とはずいぶん印象の違う暗い色彩で、ペインティング・ナイフを使って一気に描き上げた、小品だが鬼気迫る作品である。もうひとつ、「林」という作品がイーゼルに乗せられていたが、これは未完。前年、狭心症で倒れ、一時もち直したかに見えたが翌24年、喘息を併発して死去したのである。享年五十八歳。長いとはいえないが恵まれた生涯だった。 黒田清輝の果たした先駆的役割やその功罪――功ばかりではなく罪についても最近では指摘があるが、べルサイユ近郊のジュイ・アン・ジョサスで描いたといわれる最も初期の作品「田舎家」や、コラン教室での「裸婦」、帰国してからの「湖畔」や「花野」や「梅林」の間を行きつもどりつしていると、その画業の背後に祖父や父の時代の、西洋の絵画に魅せられて独軍奮闘した有名無名の画家たち、そして日本の洋画の歩んだ遠い道のりが思われてならないのだった。 帰途、時間があったので竹橋へまわり、国立近代美術館で横山操展を見た。横山は1973年、五十三歳で亡くなった日本画家だ。二十歳で兵隊にとられ、敗戦後はそのままシベリアに抑留されて三十歳までの十年間を過酷な戦場と収容所の重労働の中に過ごした。帰国後のわずか二十三年間に描いた画業(脳卒中で倒れた後は死力を尽くして左手で描いた)は、命の底から迸りでた本当の絵画だった。突きささってくるこの叫びは、生き、そして死んでゆく人間の、声なき叫びだ。 日本画といい洋画といい、遥かな道を歩んできたものである。
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