先の中村屋美術館展の記事を読んで友人の霜田昭治君が出身の芝中学校の名物校長渡辺海旭さんが相馬黒光さんと縁があると資料をくれた。渡辺海旭さんは校長時代「遵法自治」を掲げ「己の心に従って則を越えず」の精神を生徒に教えた。特筆すべき偉業は親友の高楠順次郎博士(東京大学梵文学教授・武蔵野女子大学創設者)とともに大正新脩大蔵経(全百巻)を監修発行したことである。この大蔵経は漢訳仏典として今日においても世界中で尊重されているという。変わったところではカルピスの名付け親である。
資料によれば、渡辺海旭さんは大正2年国士舘の創立発揮人を引き受けた縁で実業家渋沢栄一の知遇を得、彼の紹介で頭山満と親交を深める。頭山からインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースの妻・俊子(相馬愛蔵・黒光の長女)の葬儀の導師を頼まれる。俊子はボースの間に2児を残して26歳で他界した。亡くなったのは大正14年3月4日、葬儀の場所は青山の善光寺、俊子の戒名は「雪峰院貞誉妙俊大姉」。海旭は次の香語を添えた。
「一家日印共艱難 雄士常存琴瑟歓 二十八貞烈跡 春風吹夢白梅寒」
黒光はこの後、渡辺海旭を深く信奉するようになり、芝増上寺の葵の間の日曜講演の購読に通う。海旭の講演は黒光の魂を養う糧となったという。自社の羊羹名に海旭の雅号壺月(こげつ)と名付けたほどであった。
残された俊子の二人の子供は黒光が手元に置き育てる。ボースに再婚を進めると、ボースは「新しい人を迎えることは私には苦痛だ。俊子に対して感じたものを、その人に感じることが出来ようとも思われないし、あなた方を置いて別の父母を持とうとは思わない。自分の体は祖国に捧げたものであって、我が命とも思っていないのに、生活の安穏のための結婚は望むところではない」笑って答えた。ボースは昭和20年1月21日58歳で死去、その長男正秀は昭和20年6月沖縄戦で戦死した。
相馬夫妻の周りには自ずと人が集まる。人柄のなせる業であろう。著名な会津八一もその一人である。早稲田中学校の先生をしているとき相馬夫妻の長男安雄を落第させたところ,夫妻は文句も言わずに感謝したという。それが縁で中村屋と深い付き合いとなる。黒光の多彩な人生については著書『黙移』に詳しい。黒光は昭和30年3月死去する。老人ホーム『浴風園』の設計図に目を通した翌日であった。享年76歳であった。
(柳 路夫)
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