2014年(平成26年)12月20日号

No.630

銀座一丁目新聞

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安全地帯(450)

川井 孝輔


谷川岳散歩


 800名を超える犠牲者を出し、魔の山として世界にその名を知られる谷川岳! 怖いもの見たさの好奇心に駆られ、一度は訪ねたいと思っていた其の場処へ行って来た。きっかけは、日頃行き付けの歯科医院で、「日帰り山さんぽ」を見た事による。小学校の遠足で行ったことがある高尾山から、南アルプスの仙丈ヶ岳迄約30 の山々が、美しいカラー写真で紹介されている。カラフルな登山姿の若者が楽しげに歩いている様子や、コースの案内他が載っていた。その中に谷川岳も紹介されていたのでその気になり、先ずは宿を探したのだったが、その時は一人客では駄目と断られてしまった。シーズンオフを待って、インターネットで探した処、手ごろな値段でしかも結構な旅館を、水上温泉にとれたので実行して来た次第である。

  久し振りの露天風呂は、「蛍あかりの湯」と称するだけあって、庭園に点滅するランプがそれを思わせ、幻想的な佇まいをも味わいながら、ゆったりした温泉気分に浸ることが出来た。翌朝8時には宿を出発して、先ずは谷川岳へのロープウエイ駅に向かう。此処は土合口駅で谷川岳への起点だが、先ずは「一ノ倉沢」に行くことにした。此処からは環境保全の為、一般の車両並びに路線バスも遮断されている。徒歩では40〜50分を要するが、町の粋な計らいで足の不自由な人の為に、定員10人の電気自動車を無料で提供し、定時に往復している。普段は使用しない携帯用の杖を持っていたところ、客の少ないこともあってか乗車することが出来た。電気自動車は、ゆっくりゆっくりと走るので、山の紅葉を観賞するのには頗る好都合である。途中「マチガ沢」では一時停車してくれたので、美しい自然をカメラに収めることも出来た。終点の一ノ倉沢に到着! 一度は見たいと思って居た念願の大岸壁が、遠くにその全容を横たえて居た。幾つもの山襞が縦に走り、夫々に由緒ある名前がついて居る様だが、初めて見るその威容には圧倒される。右寄り中央部に横幅のある、一段と切り立った絶壁が、有名な「衝立岩」らしい。中央の沢には、今なお万年雪が鮮やかに見えて、まさに絶景であった。

 林野庁の「一ノ倉」についての説明案内が在ったので、以下に載せて見る。 当地方の方言で、岩や岸壁のことを「クラ」と呼んでいますが、この岩場は世界でも最も登攀の困難な岸壁の一つに数えられ(グレード6級)ます。日本アルプスの剣岳、穂高岳とともに 日本三大岩場として知られており、谷川連峰随一の岩場であるところから「一ノ倉」と名付けられています。皆様に自然を楽しんでいただくため、この地域一帯をレクリェーションの森:一ノ倉・マチガ沢風景林に指定しています。どうぞ存分にこの大自然を満喫されますように! とあった。

 沢の左右に拡がる山肌は、晩秋とあって華やかさは無くなったものの、奥深い色合いに沈む紅葉が、落ち着いた景観を醸し出していて感動する。場所を変えて何枚もシャッターを切ったものだが、到底この目に焼き付いたものを、再現して諸兄に届けるのは難しい。少し登った処に「幽ノ沢」があって、20 分程で行けると言う。相客の人と連れ立って歩く。山路はそれなりの幅員はあるものの、電気自動車もシャットアウトなので、路面一面を落ち葉が覆って、静寂の世界になる。近くの紅葉は今年最後の明るさを見せ、遠くの黄葉は茫洋とした色合いで、山の静けさを一層引き立てて呉れる。此れこそが自然が造る山の景色であろうと一人悦に入って、「幽ノ沢」からの遠望をも満喫したのだった。

 一ノ倉沢に近い岩壁に、嵌め込まれた幾つかの銘鈑があった。その一つに、「青いヘルメット・白いヘルメット いつか逢わん あのテラス」として28才と26才の若者の名と遭難の日時・場所が刻まれてある。「一ノ倉沢概念図」を見ると、稜線中央に烏帽子岩が有り、その下を辿ると南稜テラス、烏帽子スラブと続いている。2人の若者が遭難した場所は滝沢スラブとしてあるが、概念図の左端の方にそれを見つけることが出来た。あの急峻な岸壁を登攀するには、余ほど優れた体力と強烈な精神力が無ければ、成し得ることは出来ないだろうに、敢て挑戦するその果敢な勇気には敬意を感じる。それにしても惜しいことをしたものだ。唯々ご冥福を祈るばかりであった。

 一ノ倉沢での観光を終えて電気自動車を待ったが、降りてきた客の中に如何にも体の不自由な老婦人が、花束をしっかり抱いている姿があった。そして「前橋高校山岳部OB会」が建てた、石造りの一ノ倉沢案内図の前に静かにその花束を置いた。多分遭難者の身内の人なのだろう、娘さんに手を引かれて、最後のお別れに見えたのだと思う。乗ってきたバスに再び戻ってきたが、援けが無ければ小さなバスにも乗れない様子が痛々しい。

 余計な事だが、概念図の中に谷川岳の登山史を見たので、概要を記してみる。信仰の山、生活の山から「近代スポーツの山・谷川岳」への転機は、1920年の事だった。谷川岳縦走から東面の岩場が注目され、1927年大島亮吉が注いだ情熱が谷川岳登山隆盛の発端となった。そして1931年清水トンネルの開通は、更に多くのクライマー・登山者を惹き付け、尊い犠牲を出しながら現在の登攀ルートが開拓された。慶応山岳部々報によると、大島が岸壁を調査し「すべては尚研究を要すべし、近くて良い山なり」と云ったことを紹介している。尚1930 年を谷川岳登攀史上記念すべき年とし、天才クライマー東北帝大小川登喜男の登場と、青学大の小島らが、一ノ倉沢の初登攀を成功させたと伝え、更に不可能視されていた一の倉沢の象徴であり、日本の大岸壁を代表する衝立岩が、南・藤のパーテイに依って陥落されたとし、谷川岳周辺の岩場も尾根も大盛況になったことが記してある。

 パソコンで調べると、先駆者の大島は1889年生まれで慶応の予科に入学した。中学生ながら山岳部に入り1922年には有名な槇有恒リーダーの下、積雪期の槍ヶ岳初登攀に成功した。だが1928年積雪期の槍・穂高縦走時に墜落死したとある。残念な事だが、登山・登攀が盛況を迎えた陰には幾多の犠牲が有ったと言うわけである。

 ロープウエイの土合口駅(標高746m)から、天神平駅(1319m)迄の標高差約600mを約10分で一気に登る。耳に馴染みあるこの天神平で、ゆっくり散策をと考えて居たが、それはあてが外れた。冬でこそ白雪のゲレンデとして華やかなのだろうが、いまの時季では無味乾燥であった。三つのリフトが在って何れもスキー用だが、天神山行のものだけが運行している。此れを利用して最高点から谷川岳への登山道に下るコースで行けば、多少は楽に行けるかと思ったが、却って危険らしい。むしろここから直接登山道を辿った方が良いと教えられる。

 元々頂上征服の野望は無く、行けるところ迄を散歩の積りで来たわけなので、杖を頼りに出発した。すぐに散歩の考えの甘さに気が付いた。だがこの様な登山路が、本物の登山道と言えるのだろうか。最初からアップ・ダウンの急峻且狭い路幅なのに驚く。段差の大きな階段状の木道、むき出しの岩がごろごろした道、それに鎖場まであって、まともな道が少ないのには閉口した。杖を使っての三本脚はおろか、四つん這いになって左の手で丈夫な草をわし掴みにしたり、木の根の世話になったりの有様だった。どうやら行程半ばの「熊穴沢避難小屋」にたどり着いた。頂上は「オキの耳」1977mで標高差は659mと云うことになるが、300m近くは登って来ただろうか。だが予想に反して眺望が思わしくなく、肝腎の頂上双耳の峰が見えない。次のポイント「天狗の留まり場」迄行けば、展望が開けるのだろうか・・・。だが歳を考え、無理をすると危ないから、を口実に引き返すことにした。あと10年若ければ、頂上まで行けた筈だったが、是ばかりはどうしようも無い。それでも往復2時間余をかけて、谷川岳登山の真似をした事にはなる筈で、冥途へのみやげ話にはなるだろう。

 このまま帰るのでは残念。天神平のレストランで一息入れた後、天神山(1500m)迄の高低差約200mを、スキー用リフトで登ることにした。頂上の展望台に上がると嬉しいことに、360度の展望が開けて眺望が素晴らしい。東西南北にカメラを向けたが、北側には谷川岳の双耳、トマの耳(1963m)・オキの耳(1977m)を目の前に確認できた。日本百名山の一つとして写真を撮るにはもってこいである。絵の案内板によると、曾って遠藤君との尾瀬縦走で見た至仏山は、遥か東の方向に在る。この他皇海山・武尊山・赤城山そして時には富士山迄もが、南方遥かに見えるらしい。残念ながらいずれも確たる判別は出来なかった。ともあれ頂上からの俯瞰・遠望を存分に堪能して、今回の旅を終えることにし、満足したものだった。(26.10.30〜31)