2014年(平成26年)11月20日号

No.627

銀座一丁目新聞

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追悼録(543)

東大名誉教授伊藤慎一さんを偲ぶ

 東大名誉教授伊藤慎一さんが亡くなったのを新聞の訃報欄で知った(11月9日付け・死去されたのは10月20日・享年93歳)、東大の新聞研究所の所長時代、頼まれて講師を務めたことがある(昭和54年4月から半年間)。当時、毎日新聞の役員をしていたので平岡敏男社長に了解を求めた。平岡社長は東大の学生ごろ東大新聞に関係していたので理解も速く「君の勉強にもなるだろう」と許してくれた。週に一回2時間ほど講義するのだから勉強していかねばならず少し苦労した。お蔭で現場の感覚的な新聞論に少しばかり理論的色彩が備わってきた。このころアメリカ新聞史などマスコミ関係の本をよく読んだ。この時に講義のテキストにしたのは論説委員時代、他のマスコミの学校で使っていた「ルポルタージュ論」であった。6年半務めた論説委員時代の勉強が役に立ったというわけだ。学生は27人(後で減ったように思う)。ほとんどが東大の学生で早稲田と津田塾の女子学生がいた。この中から卒業後活躍しているのは作家の森まゆみさんだ。

 伊藤慎一さんと知り合ったのは日本新聞協会の「法制研究会」であった。この会は新聞の現場で起きる様々な問題を法律の専門家が外国の裁判例、現行法の上でどのように判断するか忌憚のない意見を交わすのであった。メンバーは伊藤慎一東大新聞研究所教授のほか東大法学部長、伊藤正己、立教法学部教授、田宮裕、一橋大学助教授、堀部政男、弁護士、大野正男、弁護士、山川洋一郎。今見るとすごい顔ぶれだ。新聞側は朝日、毎日、読売から社会部長・論説委員らが出席した。月一回の研究会は固苦しさなどなく、楽しかった(昭和45年4月から昭和47年3月まで24回)。「ウォーレン・コート」に興味を持ち「デュープロセス」を知ったのはこのころである。研究会では私は社会部デスク時代そのような場合はどのように考え、どのように対処してきたか現場論を率直に申し上げた。当時、私は「私の右に出る新聞づくりの名人はいない」と公言していた。そのような生意気な態度があったにもかかわらず、伊藤慎一さんは東大新聞研究所の所長になられた時、私を講師に選んでくれた。半年間であったが得難い経験であった。

 ネットが全盛を誇り、活字文化が衰退をたどる中、新聞の生きる道は険しい。経済と同じくこの事態を乗り越えるのは過去の経験、新聞論、学理ではだめだ。

 伊藤教授の「メデア論」は私と違っても理論の行く先は「足で特ダネを稼げ」。「記事は足で書くもの」を強調されるであろう。ご冥福をお祈りする。




(柳 路夫)