2014年(平成26年)11月20日号

No.627

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安全地帯(447)

信濃 太郎


徳富蘇峰の孫徳富太三郎さん


 徳富蘇峰を先の追悼録で取り上げた(11月10日号)。今回、私の過失から図らずも蘇峰の孫の徳富太三郎さんについて書くことになった。

 実は「花ある風景」(10月20日号)で私たちの仲間の会「五輪の会」を紹介した。その際、とんでもない間違いをした。「医者の永井一成君は航空士官学校生徒隊長であった立山武雄大佐(陸士31期)の息子さん立山尚武さん(陸士60期・建築家)とたまたま7高で一緒であったので洋光台の病院の設計・建築を総べて任せた。立山親子二代にわたってお世話になった。人の縁は不思議なものだと述懐する」と書いた。私の聞き違いであった。立山尚武さんは建築家ではなかった。戦後、七高から京都大学へ進まれ、卒業後自衛隊に入られ、栄進されて定年まで勤務され、今は鎌倉に住んでおられるという。

 当日、永井君の話をその場で確認しておけばよかったのだがそのままにしてしまった。「疑問に思ったらその場で確認せよ」が新聞記者の取材原則である。その原則を怠ったのは恥ずかしい限りである。

 設計・建築を担当したのは徳富太三郎さんであった。徳富さんは我々の1年先輩の58期生で予科時代、徳富さんは永井一成君の指導生徒であった。指導生徒は各区隊に一人、先輩期の優秀なものが配属され寝起きを共にしながら次期生徒の指導に当たった。

 58期生の徳富さんは戦後、関東学院の建築科を出て一級建築士の資格を取り、神奈川県逗子に建築事務所を開いておられた。永井君が病院を洋光台に作るに当たり徳富さんに病院の設計・建築を任せた。その後、永井君が徳富さんの健康管理の相談役となり毎月健康診断していたという。

 徳富さんは戸山流の剣術が消滅しないよう剣道場を開いて青少年を指導したり、松井石根大将(陸士9期・昭和23年12月13日法務死)の興亜観音を守ったりされた。平成20年に逗子に「蘇峰徳富猪一郎顕彰碑」を建立する。碑に曰く「昭和20年大東亜戦争敗戦に伴ひ直ちに位階勲等(文化勲章を含む)を悉く国に返上し自ら『百敗院泡沫頑蘇居士』と諱して知己を五百年後に需めた」。

 徳富太三郎さんが祖父蘇峰に特別の感慨を持つのには理由がある。太三郎さんの父は蘇峰の長男で、太多雄といい、海軍兵学校40期、海軍中佐であった。昭和6年42歳で三男二女を残して亡くなった。太三郎さんは7歳であった。太多雄さんの死後は蘇峰が父親代わりとなり、五人の孫の教育をしたという。ちなみに太三郎さんの長兄敬太郎は海軍兵学校に進み海軍大尉で終戦を迎えている。太多雄さんの墓は多磨霊園にある。蘇峰の墓の隣で眠っている。

 なお徳富太三郎さんは平成24年8月死去された。