文化の日,暖かな陽射しに誘われて近くの多磨墓地に徳富蘇峰の墓に詣でる。偶然、11月2日(昭和32年死去・享年94歳)が命日と知ったからである。さすが祭日、霊園は車で来る人もあって普段よりはにぎわっていた。
多磨霊園の6区1種8側13番、公園通りにあった。「徳富家の墓」は一族含めて9基が並ぶ。蘇峰の墓は真正面。碑銘は「待五百年後、頑蘇八十七」。右に蘇峰の戒名「百敗院泡沫頑蘇居士」、左に静子夫人の戒名「平常院静枝妙浄大姉」とあった。
「蘇峰忌の森を歩けば木の実降る」藤井雪江
蘇峰は毎日新聞とは縁が深い。毎年行われる物故社員追悼会の先覚記者霊名40柱にその名がある。昭和4年、国民新聞の社長を辞めた後、毎日新聞の前身東京日日新聞に社賓として招かれた。立会人は後藤新平と清浦圭吾の両氏。覚書には「毎日新聞は社賓として礼を尽くす。蘇峰は近世日本国民史,時論、随筆,紀行文、その他を寄稿する。契約期間は5年とし、双方の合意で期間を定めて更新することができる。毎日は所定の報酬のほか一定の国民史修史事業費を支払う」とある。4月4日から国民史を朝刊に、時論その他を「日日だより」として夕刊に掲載された。
なお、国民新聞は戦局が進むにつれ物資が不足となり夕刊廃止、朝刊4ページとなったので昭和19年10月28日で連載中止を余儀なくされた。蘇峰の「近世日本国民史」全百巻(時事通信社刊)が完成をみるのは昭和27年4月であった。大正7年に筆を起こしてから前後24年を費やしたことになる。
昭和16年12月8日の大東亜戦争勃発の日、毎日新聞のみが「8日開戦」を知った上での紙面展開をした。この情報に蘇峰が深く関わっている。当時編集主幹であった高田元三郎さんの話によれば、蘇峰は東条英機首相からの頼みで宣戦の詔書の原文に手をいれたことから「開戦近し」を知った。そのことを蘇峰が女婿(三女久子の夫)の毎日新聞の主筆の阿部賢一(昭和4年蘇峰とともに毎日入社・戦後早稲田大学総長)にもらす。阿部主筆の指示で12月8日の新聞制作の準備が進められたという。
「知る権利 ますます重き 蘇峰の忌」悠々
蘇峰は19歳の時,修学の目的を立て『第一、史学。第二、文章学。第三、経済学。右通に相定め候也」と書いた。生涯実行したという。蘇峰について中野好夫が次のように評している。「はじめまず急進的平民主義で一躍新青年層の指導者になり、途中にして帝国主義、膨張主義を強調する力の信者となった。そして最後は好むと好まざるにかかわらず昭和軍国主義とその運命をともにした」
「知らば知れ 栄光挫折 冬の月」悠々
(柳 路夫)
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