2014年(平成26年)10月10日号

No.623

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花ある風景(538)

 

並木 徹

 

「菱田春草展」を見る 

 芸術の秋、友人と『菱田春草展』を見る(東京竹橋・近代美術館・11月3日まで)。横山大観とともに朦朧派と呼ばれた画家。洋画に対抗して日本画の新境地を開く。展示作品は108点。かなりの込みようであった。

 「王昭君」(重要文化財・明治35年作)に目が留まる.王昭君の後に16人の像が描かれる。岡倉天心から空気を描けと教えられた。線よりも色彩に重きを置く。春草は、 東京美術学校第二回生として、優秀な成績を納め、 岡倉天心を始め周囲から大いにその未来を嘱望された。

 翌年の明治36年の作に「弁財天」がある。白衣の女性が楽器を抱えた像である。その優美さが何とも言えない。映画「天心」では春草の妻千代が子供を抱え貧しいながらも夫を支えてゆく姿が描かれている。千代は旧萩藩士、野上宗直の長女。結婚は春草24歳であった。このころ、春草、大観の新しい試みは、日本画の伝統をぶち壊すものとして非難され絵も売れなかった.天心もまた不遇であった。明治36年1月、春草は大観とともにインドへ行く。目的はティペラ国王の宮殿装飾を担当する事であった。日露戦争直前の事、その仕事は駄目になった。二人はタゴールの援助によって2人展を開催、 現地の新聞の評判も良く、思いがけない収益を得て帰国する。腰を落ち着けるまもなく天心に同行して米国へ行く。 日露開戦の当日、最後の定期船に乗った2人は、外交交渉で渡米する末松謙澄の一行と同船し、見送りに来ていた伊藤博文の演説を甲板で聞く。

 渡米するや天心とは分かれて、二人は展覧会を催す。さすが富の国アメリカ。驚くほど良く売れた。美術院の経営のために金を送り、勿論、家にも送り、やっと一息つくことが出来た。春草29歳、大観35歳であった。

 少々余裕が出来た二人はその足でヨーロッパへ。ずっと羽織袴で通したので、小さくて美青年だった春草は、よく女性と間違われ そのつど怒っていたという。 

 以後十数年、春草が36歳で病没するまで、日露戦争を挟んで、 まさに激動そのものの時代に、千代は、愛児四人を産み、育て、 収入も途絶えがちな家計をやりくりして家庭を守った。

 「賢首菩薩」(重要文化財・明治40年作)「落葉」(重用文化財・明治42年作)「黒き猫」(明治43年作)「柿に猫」「柿に烏」(明治43年の作)。作品は新しい日本画の定着ぶりを見せる。

 春草のこのころの住居は 代々木であった。今の明治神宮のあたり。まだまだ武蔵野の面影深い、 穏やかな自然に溢れていた。温かく家族に囲まれて、 武蔵野の美しさに誘われて、春草は次々と傑作を生み始める。 畢生の名作、「落葉」もここで産まれた。「黒き猫」「雀に鴉」(明治43年作) 「早春」(明治44年作)など目を患いながらも、 珠玉のような傑作が産まれた。

 これらの新作は次々に売約がきまり、名声も国中に広がり、ようやく持てはやされてゆく。借家だった住まいを新築して移転した矢先、明治44年9月16日、死去する。享年36歳。37歳の誕生日が間近であった。千代と結婚してから、13年目。 大観が、90の寿を保って達成できた足跡と、なんの遜色もない程の、 高い業績であった。 大観は、どんなに自分の絵を褒められても、「春草君はもっと上手かった。あれこそ金の瓦。磨くほどに輝く。 俺なんか普通の瓦だよ」といっていたという。