2014年(平成26年)10月1日号

No.622

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

茶説

「郵便の父」前島密さん

 牧念人 悠々

 知人・部矢敏三さん(和歌山県花園村元村長・故人)の娘さん祥子さん(龍谷大学非常勤講師)が「切手の博物館研究紀要」(第10号)に「切手の中の前島密」を発表している。前島密は1円切手(昭和22年8月10日発行)でよく知られるがこれが一つの論文にまでなるとは驚きであった。「切手が発行された時代、世相を的確にとらえ、日本画的手法による検証も加えてある」と博物館側も高く評価している。

 祥子さんの論文を参考にしながら日本に郵便制度が新設された当時の世相を見てみたい。日本には江戸時代から飛脚便があった。江戸・大坂・京都には飛脚屋が組合を作って商売を始めた。飛脚のスピードは1時間平均2里8町(約9キロ)と言われた。明治元年(1868年)4月、太政官内に駅逓司を設け駅逓頭に前島密を任命する。3年7月には郵便の官営を実施する旨が公布。12月には東京―大阪間の2藩6県に対して郵便開設につき書状集積や切手売りさばき所を設けるよう通達を出す。これが「郵便」という文字を出した最初の法令である。4年4月20日に「新式郵便制度」が誕生した。「書状差出人心得書」の中には切手は書状の裏側に貼り付けることと今日とは逆なことも指示されていた。5年には郵便箱も設置されたが「小便箱」と間違えてお上りさんがこの箱で用を足したという話もある。

 もちろん飛脚業者は「世襲的営業権として幕府が公認してきた祖先伝来の家業を廃止することまかりならぬ。天朝の尊厳を以て飛脚業のごとき民間卑賤の業をはじむることの理あらんや」と怒る。「民営圧迫」というわけである。前島密は飛脚業者を説得し明治5年、陸運元会社(日本通運会社の前身)を設立、身の振り方を世話する。この制度のおかげで東京―大阪間飛脚便なら7−8日かかっていたところを78時間で済むようになった。厳重な人選を行って「飛脚」を雇い入れた。その名も「飛行人足」とつけられた。

 篠田鉱造著『明治百話』下(岩波文庫)には旗本の二男坊が赤坂局の集配人(明治12年11月・年齢24歳)となり生計を立てた話が紹介されている。月給5円。家賃1円50銭。朝4時半に家を出て局へ出て夜帰る。足がすりこ木のようになる。自転車のようにかけていたといいます。明治40年まで務め「組長」まで出世する。月収は23円くらいまでになる。一時金268円であった。この間、結婚もして女子は女子大の付属高女を卒業させる。また弁天町で売りに出た160坪五戸棟の家付きを320円で購入、佳作を持つ身分になる。日露戦争、義勇艦隊にも応分の寄付をする。「人間一生は辛抱である」とつくづく感じたという。

 北原白秋の歌に郵便配達を歌ったものがある。

 「あまつさえキャベツかがやく畑遠く郵便脚夫疲れくる見ゆ」

 郵便の仕事に携わった人には意外に変り種が多いという(毎日新聞社会部編「明治百年」)。作家の川口松太郎(大正初期に埼玉県鳩ケ谷局)、松本清張(昭和3年下関東郵便局で内勤)、源氏鶏太(昭和3年富山郵便局郵便課)、などである。

 郵便制度生みの親・前島密は現在の新潟県上越市で天保6年(1835年)1月に生まれ、神奈川県横須賀市で大正8年(1919年)4月、死去する。享年83歳であった。明治24年退官するまで次官として逓信事業に尽くした。前島密が切手に登場したのは大正10年4月20日。4種類の「郵便聡氏0年記念切手」のうち3銭と10銭の図案に銅像としての前島密が登場する。昭和2年「万国郵便連合加盟50年記念切手」で1銭5厘と3銭切手にはじめて肖像として登場する。郵便に関する国際機関である「万国郵便連合」に日本が加盟するのに前島密は努力する。明治10年6月、独立国では23番目、アジアでは初めての加盟であった。この切手発行後、戦時中の切手には前島密は一度も登場しない。前島密は「平和なイメージ」があるからであろうと部矢祥子さんは指摘する。前島密は記念切手の10円、60円、80円や普通切手の15銭などの登場し、現在までに14度にわたって、19種類の切手が作成された。「郵便の父」にふさわしい。

 「日本切手史上、前島密は特別な位置にある」と部矢祥子さんは言うのだが今の学生は前島密を知らない。切手を貼って出す手紙やはがきを一度も書いたことがないという学生が少なくないという。切手一つに歴史がある。それを忘れてはいけないと前島密の1円切手は教えている。