同期生の柴田繁君は敗戦で軍人の道を絶たれたが戦後できた自衛隊に入隊、最後は自衛隊体育学校校長で退職した。位は准将であった。実に武人らしい男であった。惜しくもこのほどなくなった(8月18日、享年88歳)。彼の真骨頂を表したのは、冬の八甲田山の雪中行軍である。
第5普通科連隊(青森市駐屯)連隊長(一佐)在任中の昭和47年1月16日、八甲田山の雪中行軍に挑戦、一兵の落伍者もなく無事目的を達成した。明治35年1月23日雪中行軍を試み挫折した青森歩兵5連隊の無念を70年ぶりに晴らした。装備などが昔より一段と進歩したとはいえ快挙である。「八甲田山死の彷徨」の著者、新田次郎さんもお祝いの電話をかけた。この雪中行軍での柴田連隊長は歩兵5連隊の第二大隊長山口ユ少佐の役割であった。部下11名とともに救出された山口少佐は199人の犠牲を出した責任を取って自決された。その著書の中で新田さんは山口大隊長を厳しく批判する。電話で柴田君に「山口少佐のことを色々書きましたが、これはあくまで小説の世界の事ですから了解してください」と断ったという。
柴田君が八甲田山雪中行軍を思い立ったのは昭和45年7月、第5普通科連隊長を拝命した時であった。小学生のころ、家に軍歌「陸奥の吹雪」(作・落合直文。作曲・好楽居士)のレコードがあった。10番までの歌詞を暗記するまで愛唱していた。昭和18年4月、陸軍士官学校に進み、昭和20年2月から3月にかけて兵科は通信の柴田君は同期生とともに大西啓区隊長(陸士55期)に引率卒されて青森の電信4連隊(歩兵5連隊は南方戦線に出征中)に隊付きした。隊付き中の3月の初め、筒井から浅虫まで18キロの雪中行軍を行った。登り降りの多い山間部では何回もころび木綿の軍服と防水不完全な雨衣は汗と雪に濡れ、八甲田颪の寒風のため板のように凍るという体験をする。自衛隊では昭和38年夏、冬期における遊撃戦の研究と基幹要員の訓練を命ぜられてニセコ山中で冬期の部隊行動を体験、雪中行軍についてはひとかどの専門知識を持っていた。
準備には万全を期した。装備、宿営、糧食の研究はもちろんの事、雪中行軍の予行演習も実施した。編成は歩兵5連隊の雪中行軍隊と同じく総計210名(幹部8名、曹士202名)であった。柴田君の回想録にもとずいて雪中行軍の状況を追ってみる。
出発は1月16日午前5時45分。その前に幸畑の墓地に眠る210名の英霊に捧げ銃の敬礼と黙祷をする。積雪約20センチ。道は登り坂である。スキーは担ぐ。幸畑から3キロの田茂木野を通りすぎる時まだ暗いのに日の丸の小旗を打ちふるいながら万歳を叫ぶ村民の姿があった。村を過ぎるころから雪深くなる。湿雪はスキーのシールに張り付き歩行を鈍らせる。隊員は35s(スキーを含む装着品15s、糧食9食分、小銃など携行品20kg)を身につけた上、65から70sのアキオを4人づつ交代で挽きながら登る。シールに張りついた雪のために丸太ん棒を足につけて歩いている状態なのでシールを取り外す。後藤伍長(房之助)が立ったまま仮死状態で発見された場所(高木勉著「八甲田山から還ってきた男」によると田茂木野から2里行程の大滝平付近)で停止し、追悼のラッパで黙祷する。またその近くの賽の河原で雪の中に黒髪だけを僅かに残して凍死した神成文吉大尉(第2大隊第5中隊長)の発見場所でも同じことを行う。
第1日目の難所の按の木森近くに着いた時、ますます雪は重く深く、先頭の進路啓開隊(隊長武藤1曹・16名)は5メートル進むごとに最先頭のラッセルを交代する。小隊長、班長の動作も鈍く行軍長経も伸びる。しかも湿り雪に濡れ体は汗に濡れてびしょぬれになった。標高732メートルの馬立場に着いたのは13時30分であった。地元の人はここを氷山と呼ぶ。田代温泉まで2キロの地点である。ここにある後藤伍長の銅像の前で柴田連隊長と西川久雄中隊長がラッパの吹奏で敬礼する。14時50分第1日の露営予定地の鳴沢に着く。青森隊は鳴沢峡谷に迷い込み40人が凍死する。直ちに4人が入れる雪洞づくりを始める。食後濡れた下着を替える。2日目の露営地では着替える下着がない。考えた末、2泊3日の予定を変更して明日中までに目的地まで突っ走る決心をする。
第5普通科連隊の調査(昭和40年)によれば、青森から田茂木野を経て小峠付近まではほぼ気象条件は変わらない。小峠の先約9キロの大滝平付近から様相は一変する。大滝平、賽の河原、馬立場に至る4キロは「南北の沢谷から吹き上げる風、南の前岳の西側山腹から巻き下ろす風雪」が激しく気温も青森市内より「平均12度」低下する。馬立場から約800メートルの鳴沢付近は前岳(高さ1251メートル)から吹きおろす雪、駒込川から吹き上げる風雪による吹き溜まりの状況を呈して平均5メートルにおよぶ積雪がみられるという奇異な極地気象である(児島襄著「日露戦争」第一巻)。
1月17日7時露営地出発、快晴の中、30キロの雪道の強行軍が始まる。明るいうちに北俣沢の危険地帯を通過しなければならない。田代平高原はスキーをつけても膝まで没する。進路啓開隊の疲労の色も濃くなる。11時30分第2日露営予定地の駒込橋に着く。昼食もそこそこに再び果てしない雪原を進む。14時過ぎ行軍最大の難所北俣沢に着く。夏道は谷から吹き上げる風雪のため吹きたまって消え失せ、谷まで100メートルの急斜面になっている。そのまますすめばアキオとともに谷底に落ちる。シャベルで進路を開拓。アキオ一台が通れる幅の進路を100メートル近く開設する。最後尾がこの難所を通過したのは16時30分を過ぎていた。北俣沢橋を渡ってからは、渓流に沿った坦々たる山道を下るだけである。下り坂はスキーの操作が難しく、暗くなっていたので転倒するものが続出。増沢部落を通り過ぎる時、部落の人々が日の丸の旗を振って出迎えた。目的地の柏小学校に着いたのは20時30分。全員が揃ったのは21時過ぎであった。柴田連隊長は感動する。「第5普通科連隊はやはり歩兵第5連隊の堅忍不抜の精神を受け継いでいてくれた。このときから私と連隊の隊員の間に深い信頼関係が生まれた」
翌18日朝、明治35年1月弘前の歩兵31連隊の八甲田山雪中行軍(指揮官福島泰蔵大尉、総勢38名.全行程230キロ無事走破.10泊11日)を案内した法量(地名)の7人の墓を詣でた後、車両で十和田を経由して出発地点の幸畑墓地に戻る。青森駐屯地へ帰還後、第9師団長斎藤稔陸将(京都大学出身)が万一の場合を考え辞表をしたためていたのを柴田連隊長は知った。もちろん柴田君も辞表を書いていたのは言うまでもない。その後、八甲田山の雪中行軍は自衛隊の伝統行事になるが、時期を1月に選んで挑んだ話を聞かない。1月の厳冬の八甲田山はやはり「魔の山」なのであろう。
(柳 路夫)
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