2014年(平成26年)10月1日号

No.622

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安全地帯(442)

信濃 太郎


軽巡洋艦「多磨」乗組員の慰霊祭行われる


 府中市にある大国魂神社が戦後初めて軽巡洋艦「多磨」の乗組員の遺族などゆかりの人々を集めて慰霊祭を行った(10月25日)。「多磨」には大国魂大神が分祀されているからである。昭和19年10月25日フィリピン沖海戦で米海軍の潜水艦の攻撃で沈没、乗組員440名全員が戦死した。「多磨」は小沢治三郎中将率いる第1機動部隊に巡洋戦隊として軽巡洋艦「五十鈴」とともに属していた。フィリピン沖海戦では小沢中将に属する航空母艦「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」の4隻も同じ日に沈没している。

 「多磨」は1921年(大正10年)1月29日就役、排水量5500トン、全長162.15m,全幅14.17m、速力36ノット。装備は50口径14センチ砲7門、40口径8センチ高角砲2門、53p連装魚雷発射管4基を備えていた。「多磨」の最後は次のようなものであった。

 1944年10月20日からのレイテ沖海戦で、「多摩」は小沢中将率いる囮艦隊に加えられた。10月25日のエンガノ岬沖海戦で、「多摩」はベロー・ウッドのVT-21、サン・ジャシントのVT-51の雷撃機TBF アヴェンジャーによる攻撃をうけ、Mk13魚雷(航空魚雷)が第2機関室を直撃して大破した。多摩は応急修理を受け、軽巡洋艦「五十鈴」に護衛されて戦線を離脱した。「五十鈴」は被弾した空母「千代田」の掩護を要請されたため、「多摩」は駆逐艦「霜月」の護衛を受けた。その「霜月」も空母「瑞鳳」の掩護に回る事になったため、「多摩」は単独で14ノットで沖縄へ向けて航行した。別の資料によると「霜月」(艦長・畑野健二少佐・海兵57期)は空母「瑞鳳」ではなく空母「千代田」を掩護、沈没した「千代田」の乗る組員121名を救助したとある。

 ルソン島の北西で、「多摩」はアメリカ海軍の潜水艦「ジャラオ」 のレーダーに捉えられた。距離1000ヤード(910m)で艦首から発射した3発の魚雷は全て外れたが、距離800ヤード(730m)で艦尾から放った4発の魚雷のうち3発が「多摩」に当たり、2発が爆発した。それから数分後、「多摩」は 北緯21度23分 東経127度19分北緯21.383度 東経127.317度の地点で2つに折れて沈没した(「ウイズベキヤ」より)。

 艦長は海兵46期の山本岩多少将である。フィリピン沖海戦には海兵46期、47期は大艦の艦長として出撃したが多くが戦死した。46期では10月24日戦艦「武蔵」艦長猪口敏平少将、10月25日空母「瑞鶴」艦長貝塚武男少将、重巡洋艦「筑摩」艦長則満宰次少将らである。47期では10月23日重巡洋艦「摩耶」艦長大江賢治大佐、10月25日空母「千歳」艦長岸良幸大佐,重巡洋艦「最上」艦長勝間良大佐,重巡洋艦「鳥海」艦長田中穣大佐、重巡洋艦「熊野」艦長人見錚一老大佐,第61駆逐隊司令天野重孝大佐らである。いずれも海軍屈指の名艦長であったが制空権を米軍に奪われ涙を呑んで南海の海に消えた。

 大国魂神社の話によれば調べてみたが「多磨」の乗組員の全員の名前が分からない。20名程度の遺族の名前しかわかってないという。当時、乗組員の名簿はあったのであろうが敗戦時焼却したのであろうか。日本人は人の霊を慰めるのに力を尽くす民族なのに時々それを忘れて”過去消滅“の擧にでる。どんなことがあっても記録は残しておくべきものである。死んだ人の霊が浮かばれないではないか・・・