2014年(平成26年)9月20日号

No.621

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茶説

「昭和天皇実録」で示された陛下の落涙

 牧念人 悠々

 「昭和天皇実録」が6年の歳月をかけて編纂されこのほど公開された。昭和天皇には深い思い出がある。埼玉県朝霞にあった陸軍予科士官学校在学中、昭和18年12月9日、陸軍予科士官学校においでになり、在学中の58期生と59期生を閲兵された。将に至近の距離で玉顔を拝した。その日の日記に「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御盾と出で立つ我は」と覚悟のほどを記した。敗戦、軍人の道は挫折した。陛下は終戦の詔勅で「堪えがたきを堪え忍び難きを忍び以て万世のために太平をひらかんと欲す」と我々を諭された。

 それから69年。1万2千ページ61巻の「昭和天皇実録」は我々の前に貴重な歴史を残す。

 実録によれば昭和天皇は落涙されたのは2度しかないという。もともと男子たる者むやみに「喜怒哀楽を表すな」と戒められている。

 1度目は乃木希典大将殉死の時。殉死の翌日、大正元年9月14日である。「皇子御養育掛長丸尾錦作より乃木自刃の旨並びに辞世などをお聞きになり、御落涙になる」とある。乃木大将の辞世は「うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり」である。時に陛下11歳である。乃木大将が学習院院長になられたのは明治40年1月31日。陛下は明治41年4月に学習院に入学された。それから4年間、乃木院長の薫陶を受けられた。秩父宮、高松宮とあいつで入学される。院長のこれら皇族に対する教育方針は一般の生徒と区別せずきびしいものであった。初等科生徒の訓示は次のようなものであった。

 1口を結べ2、目のつけ方に注意せよ3、男子は男らしく4、決して贅沢するな5、寒中は水で顔をあらへ6、破れた着物は接ぎ直せ、7、恥を知れ8、体を鍛錬せよ。
当然父兄から寮生活がきびしすぎる、食事がまず過ぎる、体育が過酷すぎるなどの苦情が出た。院長はすべて断った。「実践躬行」を旨とする乃木院長に陛下が傾倒されたのはよく理解できる。

 2度目の落涙は昭和20年11月30日軍隊解散(陸海両省廃止)の時である。上奏した最後の陸軍大臣下村定大将(陸士20期)と一緒に落涙されたという。下村陸相は終戦内閣東久邇宮稔彦王とは陸士同期である。終戦時、北支那方面軍司令官の職にあったが,乞われて急遽帰国した。下村陸相は高知出身、砲兵、陸大首席、フランス駐在が長くフランスの陸大も出ている。学者型軍人。昭和16年9月陸大の校長の時。竹中半兵衛重治と黒田官兵衛孝高のふたりの名前をあげ幕僚は上意下達・下意上達に専心、指揮官が最高の能力を発揮できるようにしなければいけないと幕僚の下剋上の非を説いた。温厚、抜群の記憶力の持ち主であった。昭和20年11月27日,幣原喜重郎内閣の第89回帝国議会の劈頭、斉藤隆夫議員が「軍国主義発生の経緯」について質問した。下村陸相は「陸軍を代表して過去の過ちを陳謝する」と率直に答弁して軍の罪をわびた。いささか長くなるが引用する。

 「あるものは軍の力を背景とし、あるひは勢ひに乗じ、あるひは独善的な横暴な措置をとったものがあると信じる。殊に許すべからざるは軍の不当なる政治関与である。左様なることが重大な原因となって今回の如き悲痛なる情態を国家に齎したことは何とも申し訳ない。私は陸軍の最後に当たって議会を通じてこの点につき全国民諸君に衷心からお詫び申し上げる。過大な罪にたいして私共は今後事実をもってその罪を償ふことが出来ないのは誠に残念である。どうか従来からの国民各位のご同情に愬へてこの陸軍の過去における罪のため純忠なる軍人の功績を抹殺し去らないよう,殊に幾多戦没の英霊に対して深く御同情を賜らんことをこの際謹んで申し上げる」

 感情をおさえてぼつリぼつり語る陸相の言葉に満場水を打ったように静まり議員も傍聴人もハンカチで目頭を拭う。陸相の双眸にも光るものがあったという(森正蔵著「あるジャーナリストの敗戦日記」ゆまに書房)。

 明治元年、太政官の中に陸海科をおき、4年に兵部省の下に陸軍部・海軍部を設け、翌年に陸軍省・海軍省となる。明治15年には「軍人勅諭」が発布、「我が国の軍隊は世々天皇の統率し給ふところにぞある」と明示される。明治から77年、敗戦によりついに軍隊解散となる。この日東京の天候は「雨、時々止む」であった。