徒然なるがままに子母沢寛著「新撰組始末記」(2003年7月15日8刷・発行・中央公論社)を読む。子母沢寛は毎日新聞(東京日日新聞)社会部の大先輩である。社会部員のころ梅谷六九という筆名で初めて『サンデー毎日』(昭和2年1月2日号)に「国定忠治御用弁」という短編を載せる。昭和2年の暮れから3年の2月にかけて戊申戦争60年の企画として新聞に「新撰組始末記」を連載、注目される。この連載物が昭和3年8月、万里閣書房から出版された。子母沢にとって『新撰組始末記』は処女出版であった。毎日新聞には記者出身の作家が少なくない。井上靖(学芸部・芥川賞・昭和25年「闘牛」)、戸川幸夫(社会部・直木賞・昭和30年「高安犬物語」)山崎豊子(学芸部・直木賞・昭和33年「花のれん」),斯波四郎(サンデー毎日・昭和34年芥川賞「山塔」)などがいる。
「新撰組始末記」を読んでいるうちに土方歳三の俳句にぶつかった。歳三の俳句集「豊玉集」である(「文久3年の春」と記してある)。歳三29歳の作である。「大和屋焼き討ち」は8月13日。「禁門の大政変」は8月18日だから物騒な事件が起きる前に読んだ句である。
「白牡丹月夜月夜に染めてほし」
「玉川に鮎つり来るやひがんかな」
「公用に出て行く道や春の月」
「しれば迷ひしなければ迷わぬ恋の道」
土方歳三が剣の道を志すのは20歳過ぎてからである。もちろん近藤勇道場の目録者だが家伝の「石田散薬」という骨接打身の妙薬をかついで武州から甲州へかけ道場という道場へ立ち寄って指南を乞い腕を磨いた。歳三が真剣をとって立てば全く別人のようになったもので“勇猛言語”に絶したという。
別の本(『新名将言行録』日本編・河出書房新社)に土方歳三の句がある。
「菜の花のすだれに昇る朝日かな」
「人の世のものともみえぬ梅の花」
「春の世はむつかしからぬ噺かな」
「菜の花…」の句はいい。「菜の花や月は東に日は西に」(蕪村)に劣らないと思う。後の句も味わい深い。
土方歳三は近藤勇が捕らわれた後、函館へ行き榎本武揚の幕下に参じ、陸軍奉行となり榎本が官軍と和するのを予知して合戦ごとに自ら危地に赴き死を求めた。明治2年5月11日の激戦で戦死する。享年35歳であった。
「花と匂う その名残せし 土方歳三」悠々
(柳 路夫)
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