2014年(平成26年)9月20日号

No.621

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安全地帯(441)

市ヶ谷 一郎


偶  感


 戦中派の老生は、日本必勝の信念のもと、任務を遂行してきたが無残にも敗戦、8月15日を境に世の中、手のひらを返すことになる。当時の新聞を見れば特に顕著だ。われわれ素人の一国民は情報を報道機関に頼らざるを得ない。それに、終戦で右から左へ完全に振り回された苦汁を経験している。またしても、老生に驚きの事件が起こった。「真相はこうだ」とまことと信じていたものが、半ば、間違い裏切られたのは残念至極、一国民として若干野次馬的だが感想を述べてみたい。 

 戦時中の勤労動員で女子挺身隊というのがあった。戦争が苛烈になり労働力不足が深刻になり、昭和18年(1943)5月閣議決定で14〜25才の未婚・無職・不在学の女子を居住地で女子挺身隊を組織し、翌年3月義務として軍需工場などへ就業することになり、あとで13才に引き下げられた。決していやいやしているのを手錠や捕縄をして連行したのではない。お国のためにご婦人が我慢、または進んで働いたのであって、まだ、ご経験のあった方が多くいらっしゃると思うが、まかり間違い、その方々を数十年も慰安婦と混同していた人たちがいたそうだ。当時の方々にお聞きすれば簡単に判ること、調べなかったのはなにか変だと思いませんか。また、失礼もいいとこだ。空腹をがまん、「欲しがりません勝つまでは」と鉢巻して軍需工場でお国のために艦載機やB29 の爆撃を受けながら必死に働いた方々にごめんなさいでは済まされない。「人権問題」にやかましい方々がとんでもないことをしてしまった。日本人はおとなしいが、声なき声はかげであったろうに。よその国なら名誉棄損で暴動ものか、損害賠償請求か。この落とし前はキッチリと、はて、どうつけるのかな?古来「過ちて改むるに憚ることなかれ」というが、それには期間があるだろう。わかったのが遅すぎないか。

 「突撃一番」を兵隊さんの外出時に持たせる軍の部隊があったのは、今、黙っているが,当時の兵隊さんには良く知られていることだ。慰安所へ行くため、悪い病気に対する防護、つまりコンドームの別名だ。いろいろ議論はあり、女性には大変失礼な言辞を弄して申し訳ないが、当時の世相として、よその国の軍隊にもいろいろな形式はあったろうが、慰安婦のたぐいはあって当然という考え方だった。そのうち、日本のやりかたは、女衒(ぜげん)という業者が多くは貧しい家の親にカネを与えて子を買い雇った、つまり人身売買だ。慰安所をつくり、そのグループが商売に軍隊のあとを付いて移動していった。古い洋画に「モロッコ」や「外人部隊」などもその類(たぐい)ではなかったか?もちろん、当時は日本人として朝鮮半島の人もいただろう。軍隊が連れて歩いたのではない。戦争を知らない平和な時代に育った人が大多数になった今、「必要悪」考えて見れば決していいことではない。売春だから当然有償だ。ピンハネの女衒のダンナや彼女たちの方が、兵隊さんより余ほど収入はよかったのではないか?

 実際に韓国と戦ってはいないが、1965年両国及び国民の間での日韓請求権協定に基づき完全かつ最終的に解決済みで多額の賠償金をお渡ししている今、当時、例の仕事に関わった問題の人々は、当然、日本があなたの御国にお渡しした賠償金から請求していただくのがスジではないでしょうか。なお、失礼だが、この仕事に関わった現在の日本人もいたでしょうが、名乗り、裁判を起こさない。相手は女衒と判っているので黙っているのでしょうが、貴い青春時代にさぞ辛かった方もいただろうに。なお、朝鮮戦争米軍用の人々は自国に請求しているようだが。

 慰安婦「強制連行」がないとすれば、責任は重大、誤りに踊らされ、無礼にもそれを利用し、ワルが好機とばかり外国のあっちこっちへ、いかがわしい人形を展示しているのをどうする。それとも、必死になって「強制連行」の痕跡をさがすのか?個人なら舌ベロを閻魔様に抜かれて済むが、事ここに至って、そうはいかないだろう。あれはウソでしたとそのスジ(?)へ申し上げ、取り壊して歩くのか。なんでも後始末が肝心、後悔、ご心痛はお察しますが、日本人なら、当然きれいにかたをつけていただきたいと思うだろう。外国までもパソコンのヴィールス同様拡散、えらいことになった。報道の影響は大きい。官民多く時間と費用を費やした議論が徒労であったし、日本国、国民の名誉にかかわること、無責任に弁解、言いっぱなし、誤りっぱなしではすまされないだろう。