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朝日新聞の大誤報とローマ法王の慰安婦会見
牧念人 悠々
朝日新聞の「慰安婦報道」は大誤報として週刊誌、月刊誌から批判された。もともと存在しなかった事実を「従軍慰安婦」という造語であたかも官憲が強制連行した如き報道をしてきたのは誤りであった。日本の国益を損なったのは過去に起きた「伊藤律架空会見記」(昭和25年9月27日朝日の記者が公職追放で地下に潜行中の日本共産党幹部伊藤律と宝塚山中で会見した捏造記事)の比ではない。この認識が朝日新聞の社長ら首脳陣にない。新聞は継続性を持つ。過去に起きた事件報道が誤りであるのがわかった時、責任をとるのは不幸なことだが現在の会社の首脳陣である。それが新聞社としてのけじめのつけかたである。朝日新聞は再三にわたり慰安婦問題の報道をしてきたがそのうち、1、慰安婦を強制連行したとする吉田清治証言を「虚偽だと判断」し、「記事を取り消した。2、女性を戦時動員した「女子勤労挺身隊」と慰安婦とを同一視した記事の誤りを認めた。3、朝鮮や台湾では「軍などが組織的に人さらいのように連行した資料は見つかっていません」と認めたのである(雑誌「WILL」10月号藤岡信勝論文より)。朝日新聞が吉田清治を記事にしたのは1982年である。それから7年後に吉田清治の話が虚偽だとわかっており、23年後の訂正は不誠実と言わなければならない。人は過ちを起こすもの。記事が間違っておれば訂正すればよい。今回の報道は国際的な広がりを見せているだけに単なる訂正だけでは済みそうにないように思う。私が社会部長の時、第一報記事の過ちや取材不足に気が付き「追跡取材」を提唱し第一報記事を検証しながらさらに記事のふくらみを増す試みをしたことがあった。この精神は今でも求められている。
ところで旧聞になったがフランシスコ・ローマ法王が韓国のソウルの明洞堂で朝鮮半島の平和と和解を祈願するミサを開いた際、参列した元慰安婦と対面したというニュースは注目されてよい(7月18日)。このニュースを聞いて浮かんだのはなぜか、新約聖書「ヨハネ8章7」の「汝らのうち罪なき者まず石をなげ打て」の言葉であった。姦淫の女性が現行犯で捕まった時、ユダヤ教の教師たちは彼女をイエスの前につれて行き、律法に従って石打ちの死刑に処きかどうか問うたのだ。その時のイエスの答えである。
今回は事情を大変異にするように見える。イエスと違ってローマ法王は1、たえず国際問題について重要なメッセージを発出する。バチカンは重要な「外交プレーヤー」である。2、一神教的ではなく懐の深い多くの顔を持つ存在である(上野景文著「バチカンの聖と俗」・鎌倉春秋社)。とすれば、法王の慰安婦との会見は何らかの重要なメッセージを持つ。
今回は韓国カトリック教会の招待であった。日韓関係が冷え込んでいるのをさらに拍車をかける韓国教会の政治的行動にみえる。バチカンの懐は深い。元慰安婦を「苦しみを抱え,法王が励ましや慰めを与えることのできる人々」(報道官)と捉える(毎日新聞)。どこの国にも慰安婦問題は存在した。表に出さないのが文明の知恵というものであった。なぜ日本だけが標的にされるのか、口下手で正直なのであろう。悪い事に戦争の廃墟の中から経済復興を成し遂げ”お金持ち”になってしまった。明治以来痛めつけられてきた韓国・中国は隙があればと“日本復讐の種”を虎視耽々と狙っていた。それの一つが朝日新聞の誤った報道による「慰安婦問題」であった。日本は”姦淫女“に似た立場におかれてしまった。”ユダヤ教の教師”は韓国や中国である。
法王の韓国でのミサの目的が「朝鮮半島の平和と和解」であったのを忘れてはなるまい。民主主義国の日本との友好・親善をないがしろにして南北統一はできない。その大目標の前に「慰安婦問題」はさほど重要ではない。「法王の励ましと慰め」で十分ではないか。世界で初めて実現した元慰安婦と法王との会見はそれを意味しているように思える。
「慰安婦問題」は虚構と思っているが現実には米国や韓国に慰安婦像が設置され世界から「人権蹂躙」と日本は非難されている。法王はその“現実”を捉え「罪なき国よ、まず石もて投げ打て」とメッセージを発したように思えてならない。
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