2014年(平成26年)9月10日号

No.620

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花ある風景(535)

 

並木 徹

 

89歳の外国旅行「旅日記」 

 友人の医者・荒木盛雄君が娘さんを連れてこの夏、イギリス、フランス8日間(7月15日から22日)の旅をした。89歳目前だというのに外国旅行に行くという気力に感心する。同じ年の私は耳の関係で飛行機に乗ると離着時に偏頭痛がするので外国旅行は全く駄目である。出発から帰国までの旅日記をいただいた。俳句が添えてあるので読んでいて大変楽しい。長文なので旅のある一日だけを紹介する。

 第2日目(7月16日)(水)晴
 8時10分出発、コッツウォルズ地方に向かうガイドの話。ロンドンの緯度は北樺太と同じだが雪は年に数回。交通は左側通行で日本と同じ。ロンドンは東京の3分の2の面積、人口は年々増えており8百30万だが、昼間人口は1千万人を超えて住宅難に悩まされている。学童保護法で11歳までは一人で登校することは禁じられている。必ず親または付き添いがいなければいけない。日本とは大分違う。車の南側になだらかな丘陵地帯が広がる。夏至には4時に明るくなり、22時まで暗くならないが,冬至には明るくなるのは8時で16時にはもう暗くなると。夏は昼が非常に長く、冬は非常に短い。我々が遅くホテルに帰る時もいつまでも明るかった。ロンドン、ヒースロー空港は乗降客7千万人で世界第3位(一位アトランタ、2位北京)。高速道路は一本を除き無料。バスは40号線(M40)を走る。速度制限70マイル(1マイルは1.6キロ)。

 「丘続くイングランドや麦の秋」

 9時10分サービスエリア、睡蓮は一面に咲き、鯉がたくさん泳いでいた。バスは西北方へ進みオックスフォードを通過する。オックスフォード大学は1209年創立、イギリス最古の大学で、38のカレッジを有し生徒数は2万千人。カレッジは一つ一つ独立し、それぞれ寮・ホール・図書館・教会・城壁を持っていると。卒業生からはノーベル賞受賞者50名、歴代首相20名を輩出しているのは驚異的。

 10時コッツウォルズ地方に入る。石造りの家が並ぶ。石は土地の名産のハニーストーン,すなわち蜂蜜色、薄い黄色の石で作られている。屋根が重くなるので屋根の傾斜が急になっている。まもなくバイブリーに到着。

 バイブリーは、詩人のウィリアム・モリスが「イングランドで最も美しい」と称賛した村。村全体が緑に覆われ、間を清流が流れている。綺麗な流れに水草が生え、その間を縫うようにして水鳥(鴨)が列をなしてすいすいと泳いでおり、そこに白鳥が大きな羽を広げて共に水に戯れている。水草の上を白い蝶が舞っていたが、鼠が一匹水草の上を歩いていた。清流に注ぎ込む池ではニジマスの養殖も行なわれていたが、時間がなく見られなかった。村全体がどこを見ても絵になる。メルヒェンチックな美しい村であった。
「水草の隙を子鴨の列をなして」

 「夏の川ゆるりとわたる川鼠」

 10時25分、バイブリーを出て北上、11時25分、ポートン・オン・ザ・ウォーターに着く。コッツウォルズの中央に位置し、リトル・ベニスの愛称で親しまれている。町の中央を流れるウインドラッシュ川に築二百年の四つの石橋がかかる。川には鴨が泳いでおり、五歳ぐらいの男の子が川に入って遊んでいた。水深はわずか10センチと。両岸のベンチに座りゆっくりと時を楽しんでいる老夫婦が何組か居られた。

 12時10分バスに乗り、アンティークの街、ストウ・オン・ザ・ウォルドを過ぎモートン・イン・マーシュを通る。珍しく鉄道の駅(モートン・イン・マーシュ駅)が見えた。マーケットの町として栄え、黄色い蜜蜂の石造りの家が静かにたたずむ。

 ストラッドフォード・アポン・エイボンは名の如くイングランド中部の田園地帯を流れるエイボン河のほとりの小さい街。劇作家シェイクスピアのゆかりの地、彼はここに生まれ、ロンドンで名声をえたのち、晩年に戻ってきて最後の時を迎えている。1564年4月23日誕生、1616年4月23日(誕生日と同じ)に没している。13時、バスは初めにホーリー・トリニティー教会に寄る。ライム並木の両側に苔むした墓標が立ち並び静謐な雰囲気が漂う。シェイクスピアはこの教会で洗を受け、享年53歳で埋葬されている。ライムの木には青い実がなり、枝の間にかなり大きな鳥が止まっていた。

 13時10分より昼食。ローストビーフとヨークシャープディング。同席者には沖縄から参加の新婚カップルや。埼玉県入間市の五人の家族もおられた。80歳の飛んでいるお祖母さんに、ご子息、娘、孫娘2人と微笑ましい一家でした。料理は今一、あまり食べられなかった。

 シェイクスピアの生家に向かう。シェイクスピアの生家は1564年に生まれ青年期まで暮らした家で、16世紀の様式がそのまま保存されている。彼の父親は皮手袋の生産や羊毛の取引で財を築き。市長にもなった街の名士でシェイクスピアの没後も19世紀始めまで子孫が暮らしていたという。シェイクスピアセンターが入口になっていて、そこから生家の一階から二階に回り,それから庭園に出るようになっている。時代を経て内部は改造されたが家具や調度品、壁の装飾に至るまで、当時の様式を忠実に再現している。二階にシェイクスピアが生まれた寝室があった。庭には様々な花が咲き乱れていた。仲にも一本立葵が2メートル以上も茎を伸ばして青空に花を咲かせていた。中庭では数人アクターが見物人の前で演劇をしていた。

 「立葵の影濃き沙翁生家かな」

 「沙翁生まれし部屋にかかれるハンモック」

 15時45分バスに乗りロンドン市内へ。18時より19時マデ、パブ似て夕食、ホテルには19時40分帰着した。