友人の勝野高成君が亡くなった(7月2日・享年89歳)。その死を知ったのは雑誌「偕行」9月号であった。昨年から体調を崩していた。気にしていたのだが・・・残念である。心からご冥福をお祈りする。
同じ陸士の同期生ながら商才に富んだ人であった。私が昭和56年6月から毎日新聞の西部本社の代表になってから付き合いが濃くなった。商売のコツを色々教わり大いに助かった。当時、福岡地検検事正が同期の吉川芳郎君(故人)、同じく三菱セメント鉱業の福岡支店長が浅山五生君(故人)で、勝野君を入れて4人でよく中国語研究会やゴルフをして切磋琢磨した。何時もよい成績であったのは勝野君であった。2007年3月に出版した自伝『走り続けた60年』(海鳥社)には折にふれて聞いた話がこの本に納められている。この本を手元に置きながら勝野君を偲びたい。
勝野君の企業人としてのスタートは西日本ビルの建設から始まる。建設予定地の面積は260坪(約860平方メートル)。最後までどんな条件を出しても立ち退かない店が一店残った。雪の降る寒い日、勝野君は一人だけで出かけていった。店先に積んであった商品のシャツやズボン、下着をつぎからつぎへ道路に放り投げた。さらにノコギリで店の柱を切った。建物が壊れては商売にならない。経営者は烈火の如く怒ったが、意外にあっさりと立ち退きを了承した。後で聞いた話では「本来ならビル建設の責任者が立ち退き交渉をすべきだ。あんたのような若い者が一生懸命やっていることに感心したんだよ」ということであった。買収が完全に終わったのは昭和26年暮であった。
西日本ビルの完成は昭和29年4月。彼が冷房装置と駐車場の設置を強く望んだが通らなかった。それでも冷房装置用のパイプを通す穴だけ開けておいたので4年後に設置する際、費用が安くすんだ。この先見の明はすごい。資金繰りの苦労には頭が下がる。これをしないと一人前の経営者といえないであろう。彼の最後の武器は『誠意と度胸』。随所でこの武器が発揮される。
ビル建設を二人三脚でやってきた恩人の杉又義さんが業務上横領で福岡地検に逮捕される。杉さんを革新系福岡県知事の資金源と見ての捜査であった。勝野君が持っていた裏帳簿ではこの金銭の流れが一目瞭然であった。勝野君は重要参考人として地検の取調べを受ける。何度取り調べられても『覚えていない』『知らない』と否認し続けた。そこで検事は裏金の内容を知っている男と勝野君を対決させた。男の言う内容は事実であった。窮した勝野君は『貴様嘘を言うな』と叫んで椅子を隔てて坐っている男に飛び掛った。これしかその男に対応する手段がなかった。杉さんが拘留された28日間、勝野君が何もしゃべらなかったため杉さんは証拠不十分で不起訴、釈放された。勝野君を取り調べた検事が言った。『義経とわかって、かばう弁慶の姿を見れば、これ以上、追及はしない』。この時ばかりは勝野君も大声をあげて泣いたという。この事件以後『何があっても沈黙を守る、信頼のできる男』という評判となった。
天神再開発も進藤一馬市長に頼まれて乗り出す。いくたの難問を同期生の助けも借りて次から次へとこなす。昭和59年6月に西日本ビルの社長になる。20年間勤めた社長時代立派な仕事をしている。福岡と姉妹都市のニュージランドには奨学金制度を創設、毎年ニュージランドの若者を日本に招き、企業研修をさせた。コロンビア名誉総領事もしている。コロンビアが地震に見舞われた際には破格の義捐金を自ら出している。東日本大震災の際にも同期生会の代表幹事を務める私のところに電話で「募金活動を即座にやれ」と言ってきた。福岡県朝倉市(元甘木市)にあるシニアタウン「美奈宜の杜」(みなぎのもり)の建設も彼の仕事である。この40万坪の敷地にはゴルフ場、テニスコート、卓球場などを設け、シニアたちが楽しみながら充実した生活をおくっている。
なによりも感心するのは恩を受けた人たちへの感謝の気持ちと墓参を欠かさないことである。この著書の最後も「私が今日あるのは、何よりもみなさまのおかげです」と結ぶ。勝野君の「誠意と度胸」のほかに「感謝」も忘れずに今後を生きたい。
(柳 路夫)
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