2014年(平成26年)9月1日号

No.619

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追悼録(535)

英文学者中野好夫さんを偲ぶ

 何気なく中野利子さんの「父 中野好夫のこと」(岩波書店・1992年11月19日第一刷発行)を読む。21年前に出た本である。この本で初めて岩波書店の『図書』で愛読していた「一月一話」の著者・准陰生が中野好夫であるのを知ったのを覚えている。その後、「一月一話」−読書こぼればなしーとして出版された(1995年7月)。いまでも書く題材に困った際、よく手にする。

 利子さんは父には反抗し、すねたようにみえるが、親の背中を見て立派になられたと感じる。二人の子を持つ私など家庭を顧みず事件取材に没頭したのに比べれば中野さんはよく子供の面倒を見ている。昭和20年4月、福島県に疎開する当時、小学校1年生の利子さんに島崎藤村の童話『ふるさと』と楠山正雄編『日本童話宝玉集』を持たせる。本を読む癖は子供時代からつけておかなくてならない。そうでなければ、50歳になっても漫画の本に読みふけり、怪獣のフイギャーに夢中になったりする。

 この本で感心するのは戦時中、文学報国会外国文学会の幹事長であった中野好夫の戦争責任を論究している点である。確かに他の文学者から「時局便乗者」と批判されている。中野さん自身は「誰を戦争犯罪人と思うか」という新聞アンケートに「中野好夫」と書く。この裏には「戦前の自分は実に意気地なしあった」という反省もある。私は軍国少年で終戦時は陸軍士官学校に在学中であった。「甘んじて生き恥をさらして生きよ」と生徒隊長に諭されて郷里へ復員、ジャーナリストの道を選んだ。同期生14人が靖国神社に祀られている。戦後は「余生」と思ってがむしゃらに働いた。中野さんは「過ぎ去ったことをぐたぐたいうよりも、これから先、不言実行」という態度であったという。利子さんは戦後の中野さんの人生を「贖罪の人生だったと断定しても良いと思うようになった」と記す。

 中野さんとは昭和52年頃、内藤国夫君の紹介で知り合った。内藤君は中野さんに私淑していた。取材上いろいろ教えられたのであろう。私にぜひ会えと進めた。一緒にゴルフもしたが博学なのには驚いた。その頃から中野さんの著作を読みだした。代表作『蘆花徳富健次郎』全3巻(筑摩書房・昭和49年9月第1刷発行)を読んだのもこのころである。新聞記者以上の取材力を発揮、現場主義を取り熊本、京都、逗子、伊香保まで出向き資料を集め、いろいろな人たちとインタービューをしている。若いころ新聞記者を目指したが試験に落ちて願いがかなえられなかった。なっておればすごい新聞記者が誕生したであろうと思う。当時この三巻1395ページの大著を完読したとは思えない。拾い読みしたことは確かである。そろそろ精読の時が来たのかもしれない。

 間もなく私は九州に行き、内藤君も会社を辞めたので中野さんとは縁遠くなってしまった。九州小倉でその訃報を知った(昭和60年2月20日)。享年81歳であった。

 利子さんによれば、最後入院の際は着物に羽織を重ね、足袋をはき立ち上がる。枕元に眼鏡が残る。そういうと「そんなもん、もういらん」「なに言うてるか!」私が父の袂に眼鏡をねじ込んだという。(略) その朝、さっぱりと髭を剃っていた。和服のリア王の威風堂々の旅立ちだったとある。そうだ。中野さんの立ち振る舞いはリア王だ。心に残る人物である。


(柳 路夫)