2014年(平成26年)8月10日号

No.617

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追悼録(533)

渡辺淳一さんの偲ぶ会

 作家渡辺淳一さんの偲ぶ会に出席する(27日午後3時から・帝国ホテル)。

 参列者は1000人を超えた。何度何度も続く献花の列を見ながらそう感じた。新聞を見ると参列者は865人と出ていた。この数字は出席予定者であろう。受付の混雑から会の開始が予定よりも10分も遅れて始まったことからみてかなり「渡辺文学」フアンが参列したようである。中央祭壇には胡蝶蘭、トルコキキョウなど3000本の花に飾られた渡辺さんの遺影は微笑んでいた。懐かしい笑顔であった。

 弔辞に立った作家北方謙三さん(66)は形見分けの和服をきて「渡辺さんから小説は頭で書くものではないと言われた」と述べる。女優黒木瞳さんは「先生から女の自立や究極の愛の形を教えられた」と挨拶する。新聞記者の私はテーマの選び方、資料の読み込み方、周到な準備などを教えられた。たとえば「失楽園」を書く前には「今、阿部定を調べている」と何気なくおっしゃった。

 渡辺淳一さんが「日本アイスランド協会会長」であったということを挨拶に立った人たち誰からも語られず、いただいた資料にもなかったのが残念でならなかった。わずか「平成4年 59歳 6月 アイスランドを訪問ヴィクディス大統領と会見、対談する」という記述があるのみであった。重複をいとわずにあって渡辺淳一さんの日本アイスランド協会会長就任のいきさつを述べたい。

 渡辺さんは平成3年10月14日できた日本・アイスランド協会の初代会長であった。著名な作家が外国との友好を図る協会に会長に就任するのは異例であった。平成2年11月15日スポニチ主催でアイスランド・フエアを東京で開いたあと、アイスランドを訪問した際、ヴイグディス大統領から友好協会の設立を頼まれた。日本からアイスランドには機械、自動車などが輸出されアイスランドから毛織物や水産物が輸入されている。会長は当然財界人が良いであろうと考え、しかるべき人を介してある財界人に会長就任をお願いした。あっさり断られた。他の財界人を頼んでもダメであろうと思った。この時天の啓示で、渡辺純一さんの名前が浮かんだ。渡辺さんは昭和56年頃毎日新聞に「ひとひらの雪」を連載され読者を獲得するのに役立ったこともある。また乃木希典と夫人を描いた「静寂の声」(文芸春秋刊・昭和63年4月)が心に残っていた。そこで当時スポニチの総合推進本部長の脇田巧彦君に渡辺さんのえ交渉を任せた。心よく会長を引き受けていただいた。脇田朽彦現会長に変わるまで16年間会長を務められた。

 この日、日本アイスランド協会会長の脇田さん、名誉総領事中部雷二郎さん等会員多数が姿を見せ、在りし日の渡辺会長を偲んだ。

(柳 路夫)