俳優・上川孝也(49)がフジテレビの終戦特別番組(8月15日午後9時放送)に出演、ペリリュー島で玉砕した歩兵第2連隊長中川州男大佐(陸士30期・戦死後中将)を演じる。テーマは「生きる」だという。
戦史によれば、同島に対する米軍の攻撃は昭和19年9月15日に開始された。リューパータス海兵師団長(少将)は「戦闘は2ないし3日間で終わるであろう」と断言した。彼我の兵力の差があまりにも大きく、問題にならないと見たからである。
日本軍 兵力は歩兵第2連隊、第15連隊第3大隊、海軍部隊など9千838人、重機58挺、火砲200門、戦車20両
米軍 兵力は第1海兵師団、陸軍第81師団など4万8740人、重機1436挺、火砲729門、戦車117両。
米軍は上陸前までに1平方当たり350トンという砲爆弾を叩き込んでいる。この島は南北8キロ、東西2キロ、面積16平方キロの小島である。ところが日本軍の激しい抵抗で上陸第一目にして海兵師団の被害は戦死傷者1298人に達した。島は全体が蜂の巣のように掘りぬかれペトンで固められ、無数にある洞窟は手が加えられ地下要塞となっていた。「敵を倒さずに死ぬのは無駄死だ」と言って「一兵と言おうえども過早の出撃を許さぬ」と指示した。戦闘は中川ベースで進み、10月5日には第一海兵師団の第7海兵連隊も死傷1532人、損害47パーセントをこえ、戦闘能力を失った。第一海兵師団は崩壊した。
だが、彼我の兵力の差はいかんともし難く地下要塞も米軍に次第に浸透された。11月20日米軍は陣前100mに迫り、兵力も100人を切った。この日天皇から11回目のご嘉賞があった。日本陸軍史に前例がない。24日最後の砦である大山陣地に生存者56名を集め、連隊副官・根本甲子郎大尉(少尉候補18期)に「遊撃隊を編成し神出鬼没して米軍の心胆を寒からしめよ」と命令した後、軍旗を奉焼し14師団長宛に「サクラ、サクラ」を連送して自決を遂げた。サクラとは通信断絶を考慮してあらかじめ決めておいたもので「1、軍旗を完全に処理し奉れり2、機密書類は異常なく処理セリ」を意味していた。
生存将兵は遊撃戦を継続、山口永少尉以下34名が第4艦隊参謀長澄川道男少将(海兵45期)の説得で日本陸軍最後の戦闘を中止したのは昭和22年4月21日であった。ペリリュー島神社境内に米海軍ニミッツ司令官の日本軍の奮闘を称える記念碑がある。「諸国からこの島を訪れる旅人よ 帰り伝えよ この島を守り 全滅し果てた日本将兵がいかに祖国を愛し いかに勇敢に戦ったかを」視聴者よ。ドラマ放送を見ていかに日本軍が奮闘したかを後世に伝えてほしい。
(柳 路夫)
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