2014年(平成26年)8月1日号

No.616

銀座一丁目新聞

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安全地帯(436)

信濃 太郎


乃木希典大将の学習院長就任


 歴史学者森銑三の随筆(河出書房新社「新名将言行録」日本篇)を読んでいたら日露戦争が終わって乃木希典大将が凱旋する日が間近になったころ、内務大臣も務めた野村靖子爵が明治天皇に申しあげた。「お上,乃木が近々に凱旋しますが,乃木は帰ったら生きておりませぬ。なんとかご配慮が願ひたうございまする」。明治天皇はそばにあった反故紙に「学習院長」とお書きになって「どうじゃ、これでは死なれまい」と仰せられたそうだ。野村子爵家と乃木家とは親戚つきあいをしていたという。乃木大将の身を案じる人がここにもいたわけだ。

 第3軍が満州を離れたのは明治38年12月29日であった。乃木大将は詩を作った。
 「王師百万強虜を征す
 野戦攻城屍山を作す
 愧ず我れ何の顔かあって父老に看ん
 凱旋今日幾人か還る」

 国民の歓呼の声に迎えられて新橋駅に着いたのは明治39年1月14日であった。直ちに参内、復命書を読んだ。他の将軍と違って乃木大将の復命書は己の功績を誇らず率直に作戦経過を述べ、部下将卒の忠勇さを強調したものであった。

 山県有朋は乃木を参謀総長に推すべく明治天皇に内奏した。ところが「考えるところがあるから参謀総長は他のものを補任せよ」と仰せられた。ちなみに参謀総長になったのは大山巌大将であった。それから数日後明治天皇から「乃木は学習院長に任命する」と言われた。「近々朕の孫たち3人が学習院でまなぶことになるがその訓育に託するには乃木が最適と考える」ということであった。この言葉を聞いて山県は今更のように陛下の乃木への信任の厚さに驚嘆した。「乃木は臣として冥利に尽きる」と山県はため息をついたと、渡辺淳一はその著書「静寂の声」−乃木希典負債の生涯―に綴る。

 乃木は学習院長を引き受けるかどうか迷った。時に59歳。文官になれば死に場所を得られないのではないかという危惧もあった。正式発令後も弱音を吐く乃木に親友の石黒忠悳はいった。「今必要なのは専門家でなく新しく大胆に教育に取り組む気概を持った人です。最近遊惰に流れつつある華族の子弟を鍛えなおすには軍律の厳しさを身につけたあなたしかいません」。

 乃木大将は明治40年1月31日学習院院長になり殉死された大正元年9月13日まで学習院長であった。享年64歳であった。

 黒岩涙香は乃木大将殉死の直後に一首を詠む。
 「今まではすぐれし人と思ひしに人と生まれし神にぞありける」