2014年(平成26年)6月20日号

No.612

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茶説

ロシアによるクリミア編入と北方領土問題

 牧念人 悠々

 ロシアによるクリミア編入で日本の北方領土問題の解決は遠のいたと指摘する識者がいる。多く人々の見方であろう。昭和31年10月の「日ソ共同宣言」の時、歯舞・色丹二島が日本へ返還の好機であったのにその機を逸してからすでに58年。今さら「遠のいた」でもないだろう云う気もしないでもない。

 ロシアのクリミア編入は主権の侵害であり、力による国境線の変更で国際法上許されない。だからこそ米欧の制裁が行われた。だが、プーチン大統領は意外なことを言う。「歴史から見てクリミアはロシア固有の領土である」と、クリミア編入を正当化した(3月18日演説)。とすれば、プーチン大統領には「歯舞・色丹、国後・択捉は日本固有の領土である」と主張する日本に文句をつけられまいと、思うのだが・・・

 つい最近、畏友霜田昭治君から長文の「鳩山一郎内閣と日ソ国交回復交渉」の論文をいただいた。この中で霜田君は政党政治家鳩山一郎首相と生粋の外交官重光葵外相を対比しつつ日ソ交渉を論じており興味深かった。年齢はわずか4つ違いであったが、一高・東大法学部・政党政治家鳩山対五高・東大法学部・外交官重光の戦いでもあった。結局、懸案事項を後回しにして「国交回復」という”花”を目指した鳩山一郎首相に軍配があがった。それにしても歯舞・色丹返還の好機をみすみす逃がしたのは“歴史的損失”だと思う。

 霜田論文によれば、昭和30年7月31日から8月13日の重光主席全権・ソ連外相シェピーロフ全権の交渉は途中フルシチョフ第一書記、ブルガーニン首相との会談も持たれたが、ソ連側は「歯舞・色丹は日本に譲るが両島以北はソ連領」との主張を一歩も引かず、ついに重光は三段階作戦(南樺太、千島、歯舞・色丹→南千島、歯舞・色丹→歯舞・色丹)の最終段階に来たと判断し8月13日ソ連案を自分一存で受諾、調印することを決意した。ところが、12日松本俊一次席全権から「東京に事前に状況を報告すべきである」と夜を徹して説得され、重光は渋々これに同意した。結果は裏目に出た。国後・択捉を含む4島返還を固執する東京から「待った」の訓電と16日ロンドンで開催の「スエズ運河問題国際会議」に日本代表として出席の指令を受けた。

 後年、重光は甥の重光晶随員に「国賊になり損ねた」と話したという。松本次席全権の説得に屈したことを悔やんでいるのであろうと霜田君は察する。あれから58年、未だ北方領土問題が解決していないところを見れば時には「国賊」も必要であるという教訓である。

 ところでロンドンに出かけた重光はここで米国のジョン・フォスター・ダレス国務長官と会見する(8月19日)。霜田君の論文によれば、 巷間「ダレスの恫喝 “日本が国後・択捉をソ連領と認めるなら沖縄は米国領土にする”」があったとされる会談だが、事実ではないという。この会談でダレスは日ソ交渉の当初から支持していた歯舞・色丹に加え、国後・択捉を日本固有の領土として認め、更にヤルタ会談の効力も否定して重光にエールを送ったそうだ。但し条件があった。国後・択捉をソ連に譲渡する場合には、米国の施政権下にあった沖縄と同じ扱いにすることであった。当時日本には沖縄早期返還の輿論が高まっていたので、もし日本が無条件で南千島をソ連に返還すれば、重要軍事基地として絶対に手放せない沖縄に火が付くことを恐れたダレスの苦肉の策であった。米占領軍の早期全面撤退を標榜する重光はダレス提案に乗らなかった。サンフランシスコ平和条約には北方領土の最終帰属国を取り決める条項が欠落していた。重光は領土問題の解決には米国主導の国際会議に拠るしか手段がないと懸命にダレスを口説いたが米国は態度を保留したままであった。

 国務長官ダレスとはどんな男か。祖父ジョン・ダレスはベンジャミン・ハリソン大統領の下での国務長官,叔父ロバート・ランシングはウィルソン大統領の時の国務長官、ベルサイュ会議に出席した。彼は企業弁護士であった。「国務省に私以上に聖書について知っている者はいない」と誇り高く述べるダレスは厳格な長老教会派の諸原則を日々のアメリカの外交政策に適用しようとしたという。とりわけ「だまされたり圧力をかけられることによってモスクワに対して妥協してしまうことに対する警戒、彼の頑固な決意」といったものがコンラート・アデナゥアー(西ドイツ首相)や他の指導者たちに親近感をもたせることになったという(ヘンリーA・キッシンジャ−著「外交」下。日本経済新聞社刊)。そうだとすれば、ソ連側の強い要求によって東京裁判の被告の一人に加えられ、ソ連検察官の酷評の果てA級戦犯として禁固7年の刑を受けた重光にダレスが同情こそすれ恫喝するなどとは考えられ難い。

 鳩山首相・全権団が「日ソ共同宣言」に署名したのはその年の10月13日であった。領土問題など懸案事項は棚上げにして大使の交換をして外交関係を再開しその上で諸問題を解決して平和条約を結ぶという”棚上げ式平和宣言“であった。西ドイツもこの方式をとった。

 重光はソ連の支持を得て日本が加盟を果たした国連で演説をした後、昭和32年1月26日湯河原で急逝、享年69歳であった。その生涯は波乱万丈。昭和7年中華公使の時、爆弾テロで右脚を失う。戦時中東条・小磯内閣で外相。敗戦後も東久邇宮内閣でも外相を務める。昭和20年9月2日政府全権として降伏文書に署名する。そして日ソ交渉首席全権・・・在天の重光、その心境を歌に託ればこう詠むだろうか。

 「毀誉褒貶 言うに任せよ 我が業 まだならざるは いとかなしけれ」