2014年(平成26年)6月20日号

No.612

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追悼録(528)

君知るや老いらくの恋

 「君知るや 老いらくの恋 苦労して ネタを取りたる 先人ありき」(詠み人知らず)。

 古い話だが・・・昭和23年12月4日朝日新聞は歌人川田順と女弟子中川俊子さんとの恋愛事件を特ダネで報じた。時に川田順68歳、俊子さん40歳。当時「老いらく恋」事件として騒がられた。川田さんは住友総本社常務理事を務めた実業家であり、歌壇の長老であった。俊子さんは京都大学教授夫人で3人の子供の母であった。女弟子との恋に悩んだ川田さんが京都左京区岡崎の真如堂境内の鐘楼の石垣に頭を打ち付けて自殺を図ったことから朝日新聞のアンテナに引っかかった。京大記者クラブの平井徳志記者が再三実家にいる俊子さんに面会を求めるが拒否される。「どうしても談話と顔写真がほしい」という支局長の厳令に平井記者がふと思いつく。顔を見せた老母に俊子さんへと歌を託した。その歌とは「君知るや心ならずも三たび訪う わがなりわいの苦しきこころ」であった。俊子さんは平井記者の取材に応じ写真までとらせ、心境を綴った歌まで添えたという。

 この特ダネは社会面トップの扱いであったが教授の名も伏せられ折角、撮った俊子さんの顔写真も掲載されなかった。それなりに配慮された紙面であった。平井記者が歌を詠んだのは後にも先にもこの時が初めてであった由(八木淳著「記事にできなかった話」学陽書房より)。昔から「窮すれば通づ」という。なお俊子さんはその後正式に離婚され川田さんと結ばれた。川田さんが亡くなられたのは昭和41年1月22日、享年84歳であった。
取り難いネタをとってくる記者は極めて少ない。とりわけ事件取材がそうである。そのコツは記者の気迫にあるように思う。

 造船疑獄事件(昭和29年)の時であった。他社があすの朝刊で造船会社が政界にばらまいた政治献金一覧を掲載するという情報が入った。毎日新聞の事件取材班キャプの三木正さんが逮捕され造船会社の被告の弁護士に夜討ちをかけた。初めは知らぬと言い張っていた弁護士に三木さんが「私は取材班のキャップである。他社に抜かれると知りながらめそめそ帰えるわけにはいかない」と緊張した真剣な面持ちで訴えると、弁護士はあっさりと政治献金の一覧表を教えた。翌朝、新聞に造船会社からの政治献金一覧表が載ったのは毎日新聞だけであった。もうその三木正さんもこの世にはいない(平成2年8月22日死去・享年70歳)。

 「取り難き ネタをとる人 少なきに とれぬ人々 世にはびこれり」(詠み人知らず)

(柳 路夫)